明代護陵衛考―とくに長陵衛・献陵衛とその軍事活動を中心に―

抄録

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明の太祖洪武帝が崩御すると、国都南京に築造された孝陵に埋葬された。本来はここ南京に以後の皇帝たちの陵墓も置かれるはずであったが、洪武帝亡き後起きた靖難の役に勝利すると、太宗永楽帝は北京に遷都し、その陵墓長陵をも北京西北の昌平県の天寿山に建造した。以後の皇帝たちも歴代それに倣い、天寿山にその陵墓を造築した。このように、皇帝陵は南京と北京に分岐したが、ともに共通していることは、それぞれの皇帝陵のために護陵衛が付設されたことである。本来、文字通り、陵寝を保護する衛所という役割を課せられた護陵衛であるが、宣徳年間になると、親軍衛・京衛・外衛と同じように、鄭和の西征、兀良哈征討のような外征、鄧茂七の乱や四牌楼の戦いのような中国内部で起きた変乱にその鎮圧軍として出軍した。それは、宣宗宣徳帝が王府護衛や護陵衛のような特殊衛所の軍事力をも取り込み、それを一般衛所化しようとしたためである。 その結果、護陵衛の軍事活動の範囲は飛躍的に拡大した。

収録刊行物

  • 人文研紀要

    人文研紀要 82 61-94, 2015-10-30

    中央大学人文科学研究所

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