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  • 『 ナンコウシュウ 』 コウ

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抄録

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『南行集』は、北宋期の蘇洵とその二人の息子の蘇軾・蘇轍とが、北宋仁宗嘉祐四年(一〇五九)に、故郷の眉州眉山縣から首都汴京へ向かった旅の前半の、江陵までの船旅のなかで制作した詩文を集めている。『南行集』の体裁は、中唐期の白居易らを継承して北宋初期から編まれてきた、応酬詩集の形式を踏襲したものと考えることができる。蘇軾「南行前集叙」は、内面の自由な発露の結果としての文学表現を評価する態度を強調するが、これには、歐陽脩が「與樂秀才第一書」等で展開する、当時流行の詩風に対して、言葉をたくみに用いて華やかに表現してはいるが、内側に充満したものが十分ではないと批判する態度と類似のものである。また、彼等の旅する嘉州から峽州に至る各地は、少数民族と漢族との雑居地域もしくは異民族居住地域であり、漢族居住地域とは異なった風俗を持っている。蘇軾は当時の漢族の知識人が一般的に抱くような違和感を含んでそれらを観察しているが、「夜泊牛口」詩では、居住民の状況と対峙することを、かえって現在および今後の自分のあり方を振り返り、あるべき生き方を自問する契機として表現し、また「舟中聽大人彈琴」詩では、琴をその象徴的な対象として、知識人の正統の継承について考えている。なお、この『南行集』のなかで、蘇軾は先人の詩体を模倣する詩をとして「江上値雪、效歐陽體…」詩を制作している。この詩は、歐陽脩「雪」詩の方法を模倣し、従来の詠「雪」詩の発想から脱した、新しい表現を模索しているが、歐陽脩がこのような方法による詩を多作しているわけではなく、蘇軾詩の言う「歐陽體」は、歐陽脩に固有の詩体という意味ではなく、歐陽脩の用いている方法・スタイルほどの意と思われる。さらに、峽州は、かつて歐陽脩が左遷されていた土地であり、この地での蘇軾は、当時の歐陽脩の作品を多分に意識して作詩している。特に「夷陵縣歐陽永叔至喜堂」詩では、歐陽脩に在任当時の詩文に描いていた様々なものの現況を報告し、彼に読まれることを意識していることがうかがわれる。蘇軾が詩中で峽州を粗野な土地として描かないのも、歐陽脩が当地に滞在したことがあるという理由によるものであろう。峽州での、歐陽脩を濃厚に意識するそれら諸々の作品は、この『南行集』全体が、歐陽脩が読むことを想定して編まれたものであることを示すものであり、それは「叙」で展開される文学観が歐陽脩らの発想を継承したものであること、また「傚歐陽體」詩を制作していることとも、符合するものである。あるいはこの『南行集』は、親子の旅の報告として、彼に届けられたのではないだろうか。

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