「背教者」ユリアヌス帝登位の背景--紀元4世紀中葉のローマ帝国に関する一考察

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  • Julian in Gaul
  • ハイキョウシャ ユリアヌステイトウイ ノ ハイケイ キゲン 4セイキ チュウヨウ ノ ローマ テイコク ニ カンスル イチ コウサツ

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抄録

後に「背教者」と呼ばれるローマ皇帝ユリアヌスは, 副帝として赴任したガリアにおいて, 360年に軍隊により皇帝に擁立された。幼い頃から皇帝コンスタンティウス2世の監視下で, 政治・軍事から切り離されて過ごしてきたユリアヌスが, ガリアに赴いて後, ライン川を越えて侵攻してきたアラマンニ族やフランク族を打ち破り, 荒廃していたガリアを再建するなどめざましい働きをしたことが, その登位の背景として説明されてきた。しかし, かかる説明に対しては, ユリアヌスに同情的な伝統的解釈に対する疑問に加えて, ユリアヌスの赴任時にガリアが荒廃していたとする前提にも近年疑問が提示されるなど, 再考すべき点がいくつもある。本稿では, ユリアヌスのガリアでの行動を検証することを通じて, 4世紀中葉のローマ帝国の国力の一端を理解することを目指した。その際, ローマ側から眺めるだけでなく, 彼と対峙したライン沿岸地域の諸部族を, 近年の研究動向を参考に取り込むことを試みている。筆者の検討に拠れば, ライン沿岸地域では, 帝位纂奪や僭称事件のあった一時期を除けば帝国の支配はおおむね安定していたとみてよい。また, ユリアヌスの軍事行動は, ローマ皇帝の伝統的な辺境政策からはみ出した強圧的な要素があったものの, ライン辺境地域の住民を必要に応じて取り込む融通無碍なローマの従来からの辺境政策の範囲内で理解することができる。筆者は, ローマがライン・ドナウの辺境地域の人々を「他者」「敵」と認識するのは, アドリアノープルの戦いでの敗戦以降の激動の中と考えている。

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