悲惨な生の方へ : ジョルジュ・バタイユ「モロイの沈黙」をめぐって

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  • 井岡, 詩子
    京都大学大学院 人間・環境学研究科 共生人間学専攻

書誌事項

タイトル別名
  • Vers la vie miséreuse : autour de "le silence de Molly" de Gerges Bataille
  • ヒサン ナ ナマ ノ ホウ エ : ジョルジュ ・ バタイユ 「 モロイ ノ チンモク 」 オ メグッテ

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抄録

本稿の目的は, ジョルジュ・バタイユの著作に散見される悲惨さ, 窮乏, 凋落といったモチーフの重要性を指摘し, バタイユ思想におけるそれらの位置づけを明らかにすることにある.その際, サミュエル・ベケットの小説『モロイ』に寄せて書かれた書評「モロイの沈黙」(1951年)で描きだされるモロイや浮浪者という「悲惨な」形象を中心に, そのほかの近似する形象も考察の対象とした.バタイユが憧れと恐怖の感惰とともに語るモロイや浮浪者の悲惨さとは, 目的や結果に従属した行動の放棄の結果として生じる, これは『至高性』で描きだされる近現代社会での芸術家(あるいは作家)の落伍や窮乏と同様の構図において理解されるものである.バタイユにとって芸術作品や文学作品をつくりだすことは, 非従属的な行為にほかならない, それゆえ, 労働や理性という従属性へ傾いた近現代社会で非従属的な芸術をおこなう作家や芸術家は社会的な落伍を余儀なくされるのである.バタイユはこのような悲惨さを文学のあり方に結びつけるとともに, 人間性と結びつけもする, 悲惨さが喚起する恐怖こそが, ひとびとを人間性(理性や叙述など)へ駆り立てると言うのである, これは, ヘーゲル哲学における死への不安にも認められる役割だ, また, 晩年の草稿「遊び」でバタイユは, ヘーゲル的な主人の形象を最終的に窮乏者と呼んでいる, バタイユが主人としての至高な生にこそ意義を見出していたことに鑑みると、モロイや浮浪者という悲惨な形象は至高な生の一側面でもあると解釈できる.さらにこのような悲惨さは, 非従属的な行為の結果としてだけでなく非従属的な行為そのものとして, 恍惚を引き起こす「反抗(違反)」と等しい価値をもつと考えられる.『ニーチェについて』のなかの「頂点と凋落」では, 凋落した状態に留まるという選択に, そのような反抗としての可能挫が見出されているのである, 以上を通して, 「悲惨な」生にたいするバタイユの評価を浮き彫りにした.

収録刊行物

  • 人間・環境学

    人間・環境学 24 93-104, 2015-12-20

    京都大学大学院人間・環境学研究科

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