北東ペテン地域における「エントラーダ」の影響と終焉 -ホルムルとラ・スフリカーヤ-

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タイトル別名
  • ホクトウ ペテン チイキ ニ オケル 「 エントラーダ 」 ノ エイキョウ ト シュウエン : ホルムル ト ラ ・ スフリカーヤー

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抄録

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低地南部マヤ地域では、先古典期中期(前1000年~前400年)になると、北部ペテンPeténのミラドールMirador盆地1のナクベNakbeを嚆矢として、巨大な建築コンプレックスを擁する都市が出現する。続く先古典期後期(前400年~後250年)には、ミラドール盆地外でも、パシオンPasión川流域のセイバルSeibal、北部ベリーズのノフムルNohmul、セロスCerros、ラマナイLamanai、リオ・ベックRio Bec地方のベカンBecan、北東ペテンのシバルCivalなどで大規模な都市が現れる(図1)(Estrada-Belli 2011 : 52)。中でも巨大な規模を誇ったのが、ナクベと同じミラドール盆地内で、ナクベの北西12kmに位置するエル・ミラドールEl Miradorである。ここには15もの建築コンプレックスがあり、最大のダンタDanta・コンプレックスのピラミッドは73mもの高さに達した。紀元後100年を過ぎた頃からエル・ミラドールを始めとするミラドール盆地の都市は衰退し始め、その後100年ほどのうちに放棄されてしまう(Estrada-Belli 2011 : 64-65、120)。逆に、その頃から成長し始めたのがティカルTikalであり、向後低地南部マヤ地域において中心的役割を果たすことになる。このことは、古典期前期前半の碑文が刻まれたモニュメントのある都市の分布が、いずれもティカルから近距離にあることからも窺える(Estrada-Belli 2011 : 122)。 ところが、この古典期マヤ地域の中核であったティカルで、4世紀後半に政変が出来する。しかも、この事変はティカルにとどまらず、他の初期国家の誕生にも関連していたようである。この一大事変は、その重大さゆえか、ティカル以外の都市でも記録された。本稿では、古典期マヤ社会の政治的動向を反映する一事例でもあるホルムルHolmul―ラ・スフリカーヤLa Suficayaに焦点を当て、この政変が周辺に及ぼした影響を探って見たい。

収録刊行物

  • 史学論叢

    史学論叢 47 1-18, 2017-03

    別府大学史学研究会

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