子どもの視線における理想と残酷 --小栗康平の『泥の河』について--

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  • 沈, 念
    京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻

書誌事項

タイトル別名
  • Ideal and Cruelty in Children's Gaze --About Kohei Oguri's Muddy River--
  • コドモ ノ シセン ニ オケル リソウ ト ザンコク : ササグリコウヘイ ノ 『 ドロ ノ カワ 』 ニ ツイテ

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抄録

本論はまずはじめに『泥の河』をめぐる言説における<50年代>と<50年代の日本映画>に対する二重のノスタルジアを見出し, そのノスタルジアに映画芸術の発展を妨害する危険性が潜んでいることについて分析する. 特に, 当時の『泥の河』に関する評論において, モノクロスタンダード形式がイデオロギー的側面から過大評価されているという傾向を批判し, 第1節で「モノクロスタンダードに回帰する必要性」を形式の面から再検討する. モノクロスタンダードの形式は単なるノスタルジアではないとはいえ, 『泥の河』における美化の傾向は看過できない. このことについて第2節「美化された人物と理想の自己像」で, 『泥の河』において主要人物に対する美化が確かに存在することを検証する. 最後に, 第3節「視点ショットによる残酷な現実の暴露」で, その美化は単なるノスタルジアの幻想だけではなく, 信雄のPOVと監督/観客のPOVの混同とズレから生じる亀裂によって, 社会モラルの最後のボトムラインとなる無垢な子ども像(理想の自己像)の崩壊と, 見てみぬふりをされてきた残酷な現実を暴露する伏線としても機能していると論じる. 結論としては, 高度経済成長期の成果に陶酔して戦中・戦後を忘れようとする言論が主流を成していた80年代に, 近代化の犠牲者を再び凝視する必要があり, さらに, その視覚的快楽と余計な情報を除いて深い「凝視」に, 『泥の河』のPOVを多用する手法とモノクロスタンダードの形式は最適であると主張する.

収録刊行物

  • 人間・環境学

    人間・環境学 27 59-76, 2018-12-20

    京都大学大学院人間・環境学研究科

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