小笠原諸島の占領と返還をめぐる国務省と軍部の対立の構図

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  • The Structure of Confrontation between the Department of State and the Military over the Occupation and Reversion of the Bonin (Ogasawara) Islands

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抄録

小笠原諸島は、太平洋戦争末期の硫黄島の戦いの末に陥落して以降、1968 年まで米国による軍事占領下におかれた。戦後日米関係史において、国務省と軍部の対日政策は、その対立点よりも、むしろ一致点に焦点が当てられてきた。しかしながら、国務省と軍部は、対小笠原政策においては、対立していたかのようであった。国務省は、良好で安定した日米関係を構築する必要性から、小笠原の信託統治化に反対し、その早期返還を求めた。一方で、軍部は、不安定化しつつある極東情勢を懸念し、米国の安全保障戦略上の要請から、小笠原を恒久的に軍事占領する必要性を訴えた。最終的に、国務省が主張する小笠原返還が、1967 年11 月の日米首脳会談において合意された。それは、自国の軍事的利益よりも、日米の友好関係から得られる利益を優先した決断のようであった。  小笠原諸島には、米国の安全保障戦略上、重要な基地がおかれていた。加えて、硫黄島の戦いにおける激戦から、多くの米国民にとって象徴的意味をもつ。国務省は、軍部や米国民に小笠原返還を納得させるために、返還によって安全保障上の既得権を保持する必要があった。また、米国民の小笠原に対する特別な感情にも配慮しなくてはいけなかった。さらに、ベトナム戦争や沖縄占領に起因する日米の緊張関係を緩和することも急務であった。本論は、これらの難しい課題に対する国務省の解決策が、核「密約」であったということを論証する。そして、国務省と軍部の小笠原の占領と返還をめぐる対立が表面的なものであり、むしろ根本的には双方の意図が一致していたということを証明する。

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収録刊行物

  • 小笠原研究

    小笠原研究 40 11-46, 2014-03

    首都大学東京小笠原研究委員会

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