伊藤仁斎における「仁者」について : 『論語』雍也篇三〇を中心に

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  • イトウ ジンサイ ニ オケル ジンジャ ニ ツイテ ロンゴ ヨウヤ ヘン 30 オ チュウシン ニ

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説明

『論語』を宇宙第一の書とし、孔門の宗旨を「仁」とする伊藤仁斎において、「仁」が最重要の問題のひとつであることは指摘するまでもない。仁斎は、「仁」を「畢竟愛に止まる」(『童子問』上・第四五章)もので、「慈愛の心、渾淪通徹、内より外に及び、至らずという所なく、達せずという所無うして、一毫残忍酷薄の心なき」(同四三章)ものであると定義した上で、「徳は人を愛するより大なるはな」(同)いとする。つまり、「仁」とは端的には愛なのである。もう少し言えば、愛とは他者を少しも害することのない純粋な心で受容するということであるが、この「仁」が愛であるという理解を基盤としながら、さらにその内実を、仁斎の『論語』解釈に即して探っていくとすれば、どういうことが言えるだろうか。この点を探求する際に、方法論の上で少し留意する点が存する。仁斎は、『論語』は「仁」そのものの定義をする書物ではなく、「専ら仁義礼智を修むる方を説」(同第七章)くものであり、孔子が「仁」について問われた場合、具体的に「仁」を完成させた人=「仁者」のあり方を示すことでそれに答えているとしている。つまり、『論語』は、実際から離れた冷たい概念として「仁」を示すのではなく、その実際のありようをモデルとして示すことで、「仁」の実態を鮮やかに描き出すものであると、仁斎は理解しているのである。 本論では、この点を踏まえて、『論語』における「仁者」についての言説の理解は仁斎における「仁」理解の有効な手掛かりになるとした上で、仁斎の捉える「仁者」=「仁」を完成し体現する人のあり方について論じてみたい。ただ、「仁者」をめぐる言説は、『論語』本文において憲問五、三〇、里仁二等をはじめとして多くの箇所にある。本論では特に、雍也篇三〇における「仁者」のありように焦点を当てて論じていくことにする。

収録刊行物

  • 道徳と教育

    道徳と教育 47 (1), 116-123, 2002

    日本道徳教育学会

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