戦後奄美政治の対立構図 : 保徳戦争前夜の動向を中心に

書誌事項

タイトル別名
  • Confrontation in post-war Amami politics : Focusing on trends leading up to the Yasu-Toku Feud
  • センゴ アマミ セイジ ノ タイリツ コウズ : ホトク センソウ ゼンヤ ノ ドウコウ オ チュウシン ニ

この論文をさがす

説明

本稿の目的は,奄美群島において繰り広げられた,熾烈な政治闘争「保徳戦争」がなぜ起こったかについて,①戦後奄美政治の動きから捉えることはできないのか,②二人の間の対立軸は何であったのか,この2点の顕彰を通じて明らかにすることである。 保徳戦争とは,1981(昭和56)年から1993(平成5)年までの間,衆議院議員選挙奄美群島区において,当時現職でありかつ田中ロッキード事件の弁護人として活躍していた現職衆議院議員保岡興治と,日本の医療改革の旗手として脚光を浴びていた特定医療法人徳洲会理事長徳田虎雄との間で争われた3回に渡る国政選挙をさす。当時は衆議院議員選挙が中選挙区制であった日本の選挙制度の中で,奄美群島区だけは唯一の小選挙区であった。 保徳戦争の舞台となった奄美群島は,その当時人口15万人(現在12万人),面積1250㎢の規模で,過去には島津藩の苛斂誅求を受け,戦後の約7 年間は米軍の支配下にあって苦難の道を歩み,地理的には日本本土と沖縄との谷間に位置し,台風常襲地帯なるが故に,市場出荷できる農作物も限定されており,概して産業も乏しく,交通事情をはじめ諸々の社会基盤が劣悪など様々なハンディキャップを背負った地域である。 このような地域で保徳戦争は繰り広げられたが,この争いを取り上げた新聞,週刊誌,雑誌,テレビは数多い。特に徳田は一時期“時の人”でもあり,当人自ら著したものを含めその出版物は30冊以上発行されている。いずれもジャーナリストによるものであり,エピソード中心で,保徳戦争をメインテーマにはしていない。 学術論文としては,杣正夫編著『日本の総選挙1983年』に収められている論稿がある。現地取材も綿密に行い,政治学的見地から考察を行っている。だが,この本のタイトルにあるように3回の戦いのうち, 1回目(1983年実施総選挙)だけを扱い,全体はカバーしていない。 本稿は3章立てで,第1章で,「保徳戦争前夜」として,奄美が日本に復帰した直後の選挙から,対立の構図が形成され,その後それが崩れ保岡興治一強時代が築かれた頃までの動向を概観する。 第2章では,「対抗馬待望論の芽生え」と題して,いわゆる負け組を中心に「打倒保岡」勢力を結集して,候補者擁立に向けてのさまざまな模索策動を追う。 第3章の「徳田の登場」では,全国的に医療改革を進め軌道に乗せつつあった徳田虎雄が,医療事業を棒に振る覚悟を持ってどのような経緯でふるさと奄美群島区での出馬に至ったかを追う。

収録刊行物

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ