マタイ福音書においてなぜイエスは唯一の教師であり得るか? : ——マタイ11:28-30及び23:4-12を手掛かりにして——(1)

書誌事項

タイトル別名
  • マタイ フクインショ ニオイテ ナゼ イエス ワ ユイイツ ノ キョウシ デ アリエル カ : マタイ 11:28-30 オヨビ 23:4-12 オ テガカリ ニ シテ (1)
  • Why Can Jesus Be the Only Teacher in the Gospel of Matthew ? : With Special References to Mt. 11:28-30 and 23:4-12.

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抄録

マタイ福音書において、弟子やイエス信奉者がイエスを「先生」と呼んだり、「先生」として言及することは一度もない。イエスの弟子や信奉者でない者、とりわけファリサイ派とイスカリオテのユダのみがイエスを「先生」と呼ぶ。しかし23:8において、実質的にマタイは、イエスが弟子たちの唯一の「先生」であることを示す。マタイの福音書執筆時、論敵であったファリサイ派や律法学者たちは宗教的権威を過度にひけらかしていた。彼らは、`ῥαββί'(`rabbi'=「先生」)と呼ばれることを好んだ。マタイの時代、それまで敬称として使用されていた`ῥαββί'は、学識者の称号となっていた。このような状況下、マタイは、弟子は`ῥαββί'(=「先生」)と呼ばれてはならず、唯一の`διδάσκαλος'(`didaskalos'=「先生」)はイエスのみであることを示す。なぜマタイはここでイエスを弟子の唯一の先生として示すことができるのか。本考察によって明らかになったことは、マタイが、イエスを「遜った教師」と見做しているからである。マタイは、福音書の読者である自らの教会員たち、特にキリスト者の律法学者たちが、論敵の影響を受け、称号欲やそれに付随する名誉や権力にとらわれないように、イエスから「遜り」を学び、自らを低くし、互いに仕え合い、兄弟姉妹として平等な関係を構築すべく教えているのである。

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