公共哲学としての民俗宗教-祖霊信仰と密教の霊性意識

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  • コウキョウ テツガク ト シテ ノ ミンゾク シュウキョウ ソレイ シンコウ ト ミッキョウ ノ レイセイ イシキ

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抄録

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日本における公共哲学の重要性が指摘されて久しい。学問、研究分野のタテ割り、「タコつぼ」化への反省も背景として、大学や研究者レベルの重要な研究分野となり、公共哲学者でもあるマイケル・J・サンデルの人気授業が「白熱教室」というタイトルでテレビ放映されたことで、一般的にも広く知られるようになった。 山脇直司は公共哲学へのアプローチの方法として、「理想主義的現実主義」(あるいは「現実主義的理想主義」)という表現を用いている(山脇、2004)。美しい未来を描く理想主義も、徹底した合理性を追求する現実主義や実証主義もそれだけでは社会を支える理念としては十分ではないという意味であろう。さらに付け加えるならば、その「哲学」が広く長く社会の人々に受け入れられ共有されている意識、理念でなければ、「公共」という名に値しない。 その意味でも、「公共」というからには、まず「共有」され得るもの、「共感」できる価値や意識を確認し、それを軸にして議論をスタートするのが順序であり、現実の問題やイデオロギーの枠組みなどの「違い」からしばらく距離を置くことも必要である。それは、決して抽象論や美しい理想論を語り続けることではない。公共哲学の役割は己の理想によって現実を強引に変えてしまおうとすることではなく、感情的で不毛な対立やレッテルの張り合いという愚を避け、それぞれの主張を止揚していくための「基礎工事」「土台づくり」である。そうした前提づくりを迂遠だとして軽視すれば、また新しい「タコつぼ」が増えるだけであろう。ところで、どのような民俗、社会でも人々の価値観、良心、

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