Farming by the Japanese in the Seattle Area of Washington, Prior to WWII

書誌事項

タイトル別名
  • 第二次世界大戦前におけるシアトル近傍の日本人農業

抄録

第2次世界大戦前,アメリカ合衆国の太平洋沿岸北西部の農業の発達において,日本人移民の果した役割りはきわめて大きいものがあったが,戦時中の日本人および日系人の強制隔離を契機として,同地方における日本人農業は衰微した.本稿は同地方における日本人農業の核心地であったワシントン州シアトル市近傍を対象に,日本人農業の展開過程を考察しようとしたものである.1.1880年代にシアトルからタコマにかけてのピューゼット低地に入植した日本人移民は,アメリカ市民権を有しなかったために土地の取得・賃貸を受けられず,アメリカ人農園の農業労働者や農園管理者として農業に従事した.しかし彼等の多くは二世子女が成人に達するのを機に,二世子女の名儀で土地を取得し,独立自営農民になって行った.2.シアトルおよびタコマの都市的発展が日本人農業に対する農産物市場を提供した.アメリカ人農民が酪農や普通農業に従事したのに対し,日本人農民の大多数は集約的な園芸農業を志向し,日米開戦時に至るまでに,野菜や花きの主要な供給者としての地位を占めるに至った.3.ピューゼット低地における日本人農業は,1920年代までにシアトル市からの距離に応じて,①シアトル市郊外の近郊農業,②ピューゼット湾内の島嶼におけるイチゴ生産農業,③ピューゼット低地南部における遠隔地市場向けの野菜生産農業の3形態に地域分化した.4.シアトル市郊外では,生鮮野菜・花などの生産と温室園芸が発達した.農産物はシアトル市内の卸売業者やグローサリーに出荷されたり,市内の公設市場で消費者に直売された.園芸農業のほかに,市内のホテル・レストランなどから廃棄される残飯に依存する養豚業も存在した.5.ピューゼット湾内のヴェイション島やベインブリッジ島では,野菜作や花き作に比較して広い耕作面積を必要とするイチゴ作が発達し,生産物は耕作者組合を通してシアトル市内の缶詰工場へ出荷された.6.シアトル市から30km以上離れたピューゼット低地南部地方では,1920年代以後,中西部や東部の遠隔地市場向けの野菜の輸送園芸が発達した.多種類の野菜類が生産者組合の手を経て,冷蔵貨車によって市場へ向けて出荷された.7.シアトル市近傍の日本人移民による農業は,1930年代に最盛期を迎えた.しかし1941年の日米開戦を機とする日本人・日系人の強制隔離によって,日本人による農業は潰滅した.終戦後若干の日本人が農業を再開したものの,大部分は一世の老齢化,シアトル市近傍地域の都市化の進展などの理由によって農業を再開することができず,日本人による農業は戦前期の繁栄を回復することができなかった.

論説

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収録刊行物

  • 地域研究

    地域研究 25 (2), 7-22, 1984-12-01

    立正地理学会

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