日本における共感性とシティズンシップ欠落と教育の課題~環境問題への取り組みを例に~

書誌事項

タイトル別名
  • ニホン ニオケル キョウカンセイ ト シティズンシップ ケツラク ト キョウイク ノ カダイ ~カンキョウ モンダイ エノ トリクミ オ レイ ニ~
  • Empathy, Lack of Citizenship, and Educational Issues in Japan: Taking Environmental Issues as an Example

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抄録

環境問題をテーマにした1972年「ストックホルム会議」から50年。1992年リオデジャネイロで開催された「国連環境開発会議(地球サミット)」から30年となるのが2022年である。温暖化を中心とした気候変動に関する問題は世界で取り組まれている。しかし、経済発展を目指す低開発国や飢餓状況を容易に克服できない諸国・地域の場合、様々な要因が複合的に絡み合い、環境問題に対する対応は困難であり、「総論賛成」でもアクションプランとなると十分な合意形成には至っていない。 一応の目安となるカタルヘナ議定書や京都議定書を踏まえて、2021年にはコロナ感染が世界的に拡大する中スコットランドのグラスゴーで国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(以下、COP26)が開催された。世界にイニシアティブを発揮する機会を得たはずの日本は、開発途上国ばかりか先進諸国からも期待外れの声があがり、世界的に活躍するNPO、NGO、環境ジャーナリスト、メディアからも批判され「化石賞」も授与された。 パリやグラスゴーの集会などに参加した日本人も少なからずいたが、日本政府や政治家の行動の背景には政治的経済的思惑以上に心理的構造的問題が潜んでいるように思われる。それは、日本の近代資本主義国家建設に伴う、特に教育を支配し、日本人のメンタリティー、思想構造を作り上げてきた歴史に深いつながりがある。むろん、江戸時代の強固で安定的な支配が「イエ-ムラ」構造とそこでのドメスティックな精神構造を作りあげてきたという面はあるにしても、明治期になされた天皇制国家と近代資本主義国家体制の融合という歴史的壮挙と呼んでもいいかもしれない社会システムの確立は、一方で過度な「立身出世主義」(これは佐幕側ほどメンタリティーに刷り込まれたと言えるが)「富国強兵」が社会全体を貫き、元来自治と共同性を保持していたムラの機能(相互扶助を伴うセーフティーネットなど)を摩滅させ、地主-小作関係の擬制的家族主義の殻をも破り(明治政府は、しばしば家族国家観と村落共同体の引き締めや融和政策、後に社会政策も繰り出したが)、<競争と排除>が、公的、私的領域を貫いていった。その極限に全体主義体制があり、臣民はほぼ思考停止状況に追い込まれ、アジア諸国の民衆の苦しみを、中村屋や一部アジア主義者、自由主義者、インテリなどを除いて理解する共感応力を失っていった。エンパシーはほぼ崩壊せしめられたのである。夏目漱石らが日本人の課題としていた「公徳心」は、十分育つことが出来なかった。 戦後の民主主義社会への希求も、カネと巨大な権力に巻き込まれ、大状況に目をつぶり、ミーイズムと同調圧力に過剰同調し、所属する小さな組織、グループ内で個人的・世俗的利益とその場の情緒で行為することが当たり前になった。 そこに見ることが出来る従属的人格形成は公共性や正義を軽んじ、公徳心やエンパシー育成を阻害する。 本稿では、日本の環境問題が経済や政治に従属し、カネになる環境問題には鼻をひくひくさせて投資するという禿鷹ぶりの行為要因を歴史的、社会学的に検討することを第一とする。しかしながら、第二に、これらに対するオルタナティブを教育や農業の分野から実践している事例を取り上げ、検証する。そこから、「化石賞」日本ではあるが、研究者や市民が連帯、協力することで世界とつながり、課題解決する方策を考察するものである。

収録刊行物

  • 科学/人間

    科学/人間 51 111-143, 2022-03

    関東学院大学理工学部建築・環境学部教養学会

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