安元御賀の日程構成:三月五日の位置づけをめぐって

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  • アンゲン ゴガ ノ ニッテイ コウセイ : サンガツ イツカ ノ イチズケ オ メグッテ

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抄録

後白河院の五十の賀として、安元二年(一一七六)三月四日から六日まで賀宴が催された。四日が「賀宴」、六日が「後宴」として公式な記録に載るが、その間の五日は見えない。しかし、『玉葉』や『定能卿記』、『安元御賀記』といった諸文献には五日も四日に引き続き遊宴が持たれており、「中の日」と称されている。安元御賀は、白河院の五十賀である康和二年(一一〇二)の御賀を先例としており、日程の構成もそれに倣ったと考えられる。しかし、本来は天皇の忌日であったことから後宴を避けるかたちで発生したこの「中の日」が、安元御賀では当初から設定されていた。それは、比較的緩やかな一日として楽しむことが目的であったと考えられる。賀宴や後宴に比べて柔軟な対応が可能であった「中の日」は、先例にない行事を取り込みながら、その後も展開していった。院政期御賀は先例の模倣によって停滞していたと考えられていたが、積極的に新儀を取り込み、よりよい賀宴を目指していたと考えられる。

identifier:KG003100011795

収録刊行物

  • 京都語文

    京都語文 31 197-210, 2024-02-29

    佛教大学国語国文学会

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