[論文] 肥前千葉氏の本拠形成と領主支配 (第三部 西遷武家領主論)

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  • [Article] Study on Ruling Base Formation by Medieval Lords Using the Chiba Clan of Hizen in Ogi District as an Example (Part III : The Theory of Moving Warrior Lords to the West)

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抄録

本稿は、肥前千葉氏を事例に、西遷・北遷東国武士が在来勢力との連携・競合のもと、いかにして領主支配を展開させたのかという問題について、現地調査を駆使しつつ追究した。 まず第一章では、小城郡における鎌倉期千葉氏の本拠について、明治期地籍図・中世史料・立地環境・聞き取り調査にもとづいて考察した。その結果、それは円通寺一帯に比定され、その空間構成を復元した。 次に第二章では、鎌倉期の千葉氏の屋敷は円通寺付近にあったとの想定をもとに、同寺に伝わる木造多聞天立像・持国天立像が制作されたことの意味について考察した。この二天像の造立趣旨は、天皇・将軍と千葉氏の繁栄を祈願することにあることから、これらは千葉氏(おそらく宗胤)が当代一流の仏師である湛康に依頼して制作されたものと考えられる。また、その造立趣旨には小城郡の安穏祈願も含まれていたが、それは同郡に暮らす在来勢力だけでなく民衆をも対象としたものと考えられ、二天像の造立は千葉氏による撫民の実践と理解できる。 そして第三章では、千葉氏が円通寺一帯に本拠を形成した背景について考察した。円通寺一帯は、小城郡において最も取水権が強く、同郡条里の耕地の大半を灌漑する北郷井と宝司井の上流部に位置することから、千葉氏はここに本拠を形成することでこの二つの用水の水利権を掌握し、条里内に所領を持つ在来勢力に対して優位性を確保した。しかし、円通寺一帯は千葉氏に先行して岩蔵寺の影響下にあり、本来、北郷井と宝司井の水利権は同寺が掌握していたと見られる。そこで千葉氏は、岩蔵寺と連携することでともに水利権を掌握する一方、同寺の内部対立を利用してその力を抑制するほか、肥前国鎮守の河上社の大宮司職に就任して高い宗教的権威を纏うことで、これに対抗したのである。

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