[論文] 源義朝権力の地域基盤と武士拠点 : 「義朝ガ一ノ郎等」鎌田正清と東海地域の場合 (第二部 武家領主の政治的動向)

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タイトル別名
  • [Article] MINAMOTO no Yoshitomo’s Regional Foundations and Bases of Samurai : In the Case of KAMATA Masakiyo, Who was the Number One Vassal for Yoshitomo and Tokai Region (Part II : The Political Trend of Warrior Lords)

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抄録

本稿は、源義朝権力を支える地域基盤の形成過程とその特質を、彼の乳母子にして有力な郎等(家人)である鎌田正清の存在形態と東海地域への拠点形成や地域勢力との関係の実相を検討することで、明らかにするものである。これまで彼の動向は、主として軍記物語で知られるばかりで、その実像は未詳な部分が多い。本稿では平安末期から鎌倉前期頃の鎌田一族の動向を事例に検討した。明らかとした要点は大略以下の通りである。 鎌田氏は本来は京武者としての存在形態を有しつつ、駿河国鎌田郷を本拠とし、次第に狩野川下流域の香貫郷にも拠点を持ち、如上の地域基盤をベースにさらには伊豆国北条氏とも交流を持つようになっていく。だが、かかる鎌田氏の地域活動には、駿河国長田荘を本拠とする在来領主長田氏との連携が必要不可欠であった。長田氏は安部川河口部にあって中世東海道の主要宿駅をその勢力圏に包摂しながら、西方面には知多半島の尾張国野間内海荘に拠点を、また北・東方面には駿河国内だけでなく、甲斐・伊豆地域にも情報網を巡らせていたことが窺える。源義朝は、東海道宿の長者的存在である長田氏と郎等の鎌田氏が姻戚関係を結ぶことで、鎌田氏を通じた東海道交通へのコミットを企図したと考えられる。 ただし、上述の義朝が東海地域に形成した地域交通拠点のハブや諸勢力との連携を通じたネットワークは、決して強固なものではなかった。それは、義朝一行が東国への逃避行の途上で逗留した野間内海荘にて、長田父子に謀殺されたことからも明らかである。長者など地域諸勢力の実力に依存して結ばれた関係は、彼らとの利害関係の不一致により容易に瓦解する可能性を常に孕み、こうした勢力が基盤とする宿などの流通拠点も決して一枚岩ではなく、多様な勢力が重層的に重なりあい複雑な利害関係を形作っていたのである。一見広範にみえる義朝のネットワークも、その実態は在来勢力たる長者の実力に依拠した皮相的な関係であったといえる。一方、次代の鎌倉幕府と東海地域交通との関わりは義朝期のそれと一線を画しており、宿駅の新設や在来勢力の排除など、幕府権力による整備が進展していくこととなる。

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