[論文] 鎌倉期の半不輸村落における生業・景観と在地領主 : 肥前国高来西郷伊福村・大河村と大河氏を素材として (第一部 武家領主と地域の生業・生産・流通)

書誌事項

タイトル別名
  • [Article] Production, Landscape and Local Lords’ Clan in Hanfuyu Village during the Kamakura Period : The Case of Ifuku and Okawa Villages in Hizen Province (Part I : The Warrior Lords and Livelihood・Production・Distribution in the Region)

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抄録

半不輸とは本年貢・公事の一部を寺社などの荘園領主に給付し、残りを国衙に納めさせる荘園制のシステムである。 本稿では半不輸領の村落の構造と、そこに存立した在地領主の姿を探っていく。こうした村落は荘園領主と国衙に両属し、複合的な支配を受けたが、その両属性のなかで在地領主はどのような役割を果たしたのだろうか。分析の素材として肥前国伊福村・大河村を取り上げ、特に大河氏という在地領主に焦点をあてたい。 上記の課題に応えるため、生業・景観の問題に注目した。まず、伊福村・大河村の場合、荘園領主・国衙の支配はそれぞれ畠作と稲作という異なる生業に結びついていた。こうした村落の生業(畠作・稲作)を前提としつつ、半不輸のシステムは荘園領主・国衙の合意のもとで立券にて確定された。 しかし、現地の生業・景観は常に変化する。そのために、例えば畠地の田地化などを通じて、畠作・稲作の実態は過去の立券の記載から乖離した。 こうした変動的な村落の生業・景観に対して、これを荘園制の枠組みとつないでいたのが、在地領主の大河氏であった。大河氏は現地で稲作の拡大を推し進めたのだろうが、一方で、半不輸領の沙汰人として出発したがゆえに、本質的に既存の荘園制の枠組みに依拠せざるを得ない性格も持っていた。 そして、一四世紀前半になると、荘園領主・国衙への両属を意識した文言が大河氏の一連の譲状に出現する。現地の生業・景観が過去の立券から乖離するなかでも、大河氏は容易に既存の荘園制を否定できず、むしろかつて半不輸領の沙汰人として出発したという像を自己のうちに再確認した。荘園制のなかで存立してきた在地領主の一つの自己像をここに認めたい。

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