鶴見俊輔「限界芸術論」の教育学的意義に関する一考察 --ジョン・デューイ「美的経験論」との比較を通して--

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書誌事項

タイトル別名
  • Pedagogical Significance of Shunsuke Tsurumi's “Marginal Art”: A Comparison With John Dewey's “Aesthetic Experience”
  • ツルミシュンスケ 「 ゲンカイ ゲイジュツロン 」 ノ キョウイクガクテキ イギ ニ カンスル イチ コウサツ : ジョン ・ デューイ 「 ビテキ ケイケンロン 」 ト ノ ヒカク オ トオシテ

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抄録

本論の目的は、鶴見俊輔の「限界芸術論」に教育学的意義を見出すことだ。方法はジョン・デューイの「美的経験論」との比較である。まず、美学を日常経験に開放する点で、デューイの美的経験論が現代でも教育学的意義を持つことを確認した。その後、美的経験論には、無秩序な異質性や探究の契機という点で語り直す余地があることを指摘した。そして鶴見の限界芸術論がデューイの美的経験論を発展的に受け継ぐものとして、現代の教育学に貢献する以下の可能性を明らかにした。鶴見の限界芸術論は、「日常生活の身ぶり」を起点に、「個別性」の復活を試みる。「日常生活の身ぶり」から、「生きている記号」を経由し、個別的な生のあり方が生まれる。さらに鶴見は生きている記号である「傷」を起点に、探究にむけて人が一歩を踏み出す過程を説明する。考察を通して、学びの切実性や探究的な学びに関する示唆が得られた。

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