文学と倫理 : 「経営者」ロビンソンを倫理的に読むと

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  • ブンガク ト リンリ ケイエイシャ ロビンソン オ リンリテキ ニ ヨム ト

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抄録

「企業倫理」について考えたことをきっかけとして(後のエッセイ「企業の品格」参照のこと)、倫理という観点から、デフォー(Daniel Defoe)の『ロビンソン・クルーソー』Robinson Crusoe(1719)と、クッツェ(J. M. Coetzee)『敵あるいはフォー』Foe(1986)を比較してみたいと思った。といっても、文学は道徳的であるべきかどうかというような問題設定(そういうことにはあまり興味がない)をするのではなく、それぞれの作家、あるいは物語における倫理のあり方とそれへの問いかけを問題にする。デフォーの場合には、孤島での生活を生き延びたクルーソーの物語が、今日のポストコロニアル批評の立場からは、征服と簒奪の物語として読めることを、また、クッツェは、eが欠落したCrusoを登場させ、次々とクルーソー物語をつきくずすことによって、何を言いたかったかを問題にしようと思う。作家自身が意識しなくとも、物語が倫理的問題を惹起したり、物語るという行為や読むという行為がいやおうもなく倫理とかかわってきたりするからである。

収録刊行物

  • 表現文化

    表現文化 2 3-19, 2007-03

    大阪市立大学文学研究科表現文化学教室

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