弘前と遺愛女学校の音楽教育

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  • ヒロサキ ト イアイジョ ガッコウ ノ オンガク キョウイク
  • Hirosaki and Music Education a tCaroline Wright Seminary

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抄録

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明治十五年に函館で開校した遺愛女学校は,当初生徒が集まらず,募集に応じた生徒の多く は弘前出身であった。こうした事情により,函館のメソジストミッションの音楽教育は,弘前 の音楽教育と直接つながることになった。本稿では弘前での洋楽受容史を理解する一端として, 遺愛女学校で行われた音楽教育について,女性宣教師の報告などから明らかにする。 また,弘前での音楽教育普及に関して重要な役割を果たしたと見受けられる長嶺サグについ て,その経歴を明らかにする。長嶺サグは盛岡出身で,岩手県より選抜されて東京女子師範学 校に学んだあと,師範学校の教員,函館遺愛女学校教師を経て,八八年に本多庸一と結婚した 女性である。彼女は,東京女子師範学校では,文部省お雇い音楽教師から,最新の唱歌教育を も学んでいた。文部省がはじめたばかりの唱歌教育と函館居留地でのミッションの讃美歌教育 という,当時の新しい西洋音楽教育を二つながら体験した女性として,洋楽受容史から見ても サダは重要な人物である。

弘前大学教育学部紀要. 80, 1998, p.37‐47

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