近代期,奄美大島名瀬における商業空間の特性

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  • キンダイキ アマミ オオシマ ナゼ ニ オケル ショウギョウ クウカン ノ トクセイ
  • The Special Characteristics of Commercial Space in the Modern Era in Naze City, Amamioosima Island

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抄録

明治以降第二次世界大戦前まで,奄美・沖縄の主要な島のマチにおいて,寄留商人とよばれる島外(他地域)からの外来商人が,商店や事業所を構えて,街を形成していた.本稿は,第二次世界大戦前の奄美大島名瀬において,寄留商人がつくりあげた商業空間の特性を明らかにすることを研究の目的とするものである.名瀬で寄留商人が商業活動を始めるのは,鹿児島県の保護会社である「大島商社」が1878年(明治11)に解体して以降のことである.1932年(昭和7)当時,卸売・小売業139店のうち,36%を鹿児島県出身者で占めており,これに他府県を加えて6割近くが奄美以外の出身者であった.これら寄留商人の商店は,金久本町通りと上本町通りを中心に集まって立地しており,寄留商人という社会集団が形成する社会空間を形成していた.寄留商人の商店の中には,名瀬で商店を開設して以後,営業科目を広げ,卸売業を含めた大型店に成長したものもあった.砂糖の買い付けおよび商品の卸しは奄美一円にも広がっていた.このように名瀬を拠点として商業活動を行っていた寄留商人も,第二次世界大戦が始まる前後から,その多くは名瀬から引きあげて行き,その後を引き継いだのは,その店の従業員や地元の人たちであった.このような特異な街を形成した要因としては,奄美は明治初期において商業活動の新開地であったこと,奄美には砂糖と大島紬を主とした経済基盤と人口約20万人の消費人口があったこと,名瀬は名瀬港を控え,国や県の出先機関としての官庁,教育機関,医療機関が集積し,これらの諸機関には鹿児島を中心とする島外からの人たちが多く従事し,これらの人たちは名瀬に在住していたことがあげられる.

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