朝鮮初期の文廟祭と郷村社会

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タイトル別名
  • チョウセン ショキ ノ ブンビョウサイ ト ゴウソン シャカイ
  • The Rituals Performed at the Confucian Shrine and the Rural Communities in the Early Choson (朝鮮) Dynasty

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抄録

本稿では、朝鮮初期(ほぼ一五世紀に相当)における国家祭祀研究の一環として、王都漢城と地方の文廟で実施された釈尊(毎年春秋に孔子を祀る儀礼)の運営とその実態を、王朝政府による制度化と郷村の対処を中心に考察した。高麗から朝鮮への王朝交替期には各地で郷校が復興し、本来の教育機能に加えて文廟の祭礼機能も徐々に回復しつつあった。太宗は釈尊儀の頒降を明に要請し、明の永楽帝が「儀は本俗に従う」ことを許可すると、朝鮮政府は祭祀儀礼の制度整備を本格化させた。太宗一三年(一四一三)の祀典改革は郡県制の改革時期と重なり、釈尊の整備も王権強化のための地方統治政策と連動して進む。しかし、世祖代以降、守令の怠業と教官の資質低下がしばしば問題となり、王朝政府はその対応に腐心した。そこで王朝政府は地方祭祀の運営・管理を守令に一任し、さらにこれを観察使に監督させることによって王権を頂点とする中央集権的統治体制を整備した。郷村社会を統制すべく、釈尊に代表される広域の祭礼組織とその主宰者を地方行政機構のなかに取り込んだのである。ただし、これはあくまで統治者側が定めた制度であり、あるべき理念であった。たしかに『国朝五礼儀』と『経国大典』の規定は王朝政府の理念を示すものではあるが、郷村の実態は必ずしも理念どおりではなかった。文廟祭を通してみた場合、朝鮮初期の礼と法の規定は、むしろ統治者側の理念と郷村社会の実態に落差があったことを示唆する。

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