戯曲集の<序文>解題 : メーテルリンクの演劇理論について

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タイトル別名
  • ギキョクシュウ ノ ジョブン カイダイ : メーテルリンク ノ エンゲキ リロン ニツイテ
  • Gikyokushu no jobun kaidai : Meterurinku no engeki riron nitsuite
  • Sur la Préface du "Théâtre" [Ⅰ-Ⅲ] de Maeterlinck

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抄録

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35戯曲集の〈序文〉解題メーテルリンクの演劇理論について塚越敦子 モーリス・メーテルリンクMaurice Maeterlinck(1862-1949)の、劇詩人としての処女作品は『マレーヌ姫』La Princesse Maleine l 889である。しかし、十代の頃より文学を志していたメーテルリンクは、数多くの詩を文芸雑誌に発表しており、ベルギーの文学界ではすでに詩人として注目されていた。エミール・ヴェラーレンEmile Verhaeren(1855・1916)やジョルジユ・ローデンバックGeorges Rodenbach(1855-1898)、それにカミーユ・ルモニエCamille Lemonnier(1844-1913)といった先達たちに導かれ、メーテルリンクは、いつのまにかベルギーの若い詩人たちのリーダーになっていた。とりわけ、ローデンバックの強い引き立て1)のおかげで、めまぐるしい展開をみせていた当時のフランス文壇にも顔を出せるようにもなり、パリの若い詩人たち2)をはじめとし、ステファヌ・マラルメStéphaneMallarmé(1842-1898)やヴィリエ・ド・リラダンVilliers de 1'lsle-Adam(1838-1889)のような文壇の大家たちとも知り合うことができたのであった。 めまぐるしい展開をみせていたその当時のフランス文学界とは、現実生活の具体的なものを主題として創造に励んでいた自然主義文学も飽きられ、その勢力も急速に衰えをみせはじめるようになった後の文学界の流れのことである。芸術至上主義を唱える高踏派の出現、ヴェルレーヌPaul Verlaine(1844-1896)やランボーArthur Rimbaud(1854-189])の登場、デカダン派 36の風潮、モレアスJean Moréas(1856-1910)の象徴派宣言、さまざまな文芸雑誌の誕生、文学カフェの隆盛、そうした文学的な動きこそ、まさにマラルメを中心とする象徴主義文学が台頭するに至るといった状況であった。1880年代より、フランス文学界の影響を受けながらも、ベルギー独自の文学擁護とその推進運動とが顕著になっていたとはいえ、その当時、ベルギー文学界とフランス文学界とのあいだには、あまりにも大いなる差異のあったことは事実である。フランドルの一地方都市ガンからパリに赴いたメーテルリンクは、いきなりその文学界の躍動感あふれる息吹の洗礼を受けたのである。そのメーテルリンクの受けた衝撃が、計り知れぬものであったろうとは、メーテルリンクの作品創作上の変化を推察しただけでも容易に想像可能である。弁護士としての道を歩み続けていた生活3>を、文筆一筋に切り換え、控えめな創作活動も一段と励むようになり、その成果を次々に発表し、さらには文芸雑誌の創刊に携わったりもして、ますます積極的な姿勢さえみせるようになっていた。恰も機は熟されたかのように、1889年は、メーテルリンクにとって転期以降はじめての実り多い年であったようだ。ヴィリエ・ド・リラダンと出会い、その個性的な創作信念に強く影響を受けた1886年、それ以後1889年までに発表した詩篇、さらにあらたな数篇の自由詩とを集めた詩集『温室』Serres Chaudes、メーテルリンクは、その詩集を5月に出版し、その出版を手はじめに、テレパシーについてのエッセー『夢の研究』Onirologie、ロイスブルークJan van Ruysbroeck4)の『霊魂の婚礼の飾り』L'Orne〃sent des Noces spiritue〃esの翻訳と、その翻訳に付した序文とを次々に発表した。さらにメーテルリンクは、その年の終わりに、処女劇作品である5幕の『マレーヌ姫』を出版した。その一方、1890年の8月24日付けの「フィガロ」紙に載ったオクターブ・ミルボーOctaveMirbeau(1850-1917)の『マレーヌ姫』絶賛の評論記事が、大きな反響をよび、メーテルリンクの名とこの『マレーヌ姫』とは一躍有名になった。

identifier:303602

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