翻訳 ペトルス・ニコラウス羅訳『アリストテレスの神学』第三章・第四章

書誌事項

タイトル別名
  • ホンヤク ペトルス ニコラウス ラヤク アリストテレス ノ シンガク ダイ3ショウ ダイ4ショウ
  • ホンヤク ペトルス ニコラウス ラヤク アリストテレス ノ シンガク ダイサンショウ ダイヨンショウ
  • Honyaku Petorusu Nikorausu rayaku Arisutoteresu no shingaku daisansho daiyonsho
  • The Latin version of the “Theology of Aristotle”, chs. 3–4

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抄録

type:text

ここに邦訳する世界初訳のテキストは,1519年にファウェンツァ出身ピエール・ニコラ・カステッラーニによってラテン語に訳された『アリストテレスの神学』全14章のうちの第三章・第四章である。この書は錯綜した素性をもつ。紀元3世紀後半,プロティノスによってギリシア語で記された『エンネアデス』の後半部分,第4 ~ 6 『エンネアス』の翻案であるが,これとは別の, 9世紀前半バグダードで成立した「流布版『アリストテレスの神学』」と呼び慣わされるアラビア語の翻案もある。後者の出自にすら定説はなく,世界的に議論が喧しい現状であるが,前者の素性はそれに輪をかけて謎に包まれている。研究が進捗しない原因として,このラテン語版の近代語訳が一つもないことが挙げられる。さらに近代語訳がない理由は,ラテン語版に先行し,全体の約3/4残存するいわゆるユダヤ・アラビア語(ヘブライ文字表記のアラビア語)版の校訂(プラス翻訳?)をフェントンがかなり以前に予告したにもかかわらず,未だ完了していないことによる。流布版は全10章であるのに対し,ラテン語版は14章からなるので,『アリストテレスの神学』の「長大版」(longer version)と称されている。ラヴェンナのフランチェスコ・ローズィがダマスクスの著名な図書館で発見したアラビア語写本を,キプロス出身のユダヤ人医師モーセス・ロヴァスを雇ってイタリア語,ないしは粗雑なラテン語に訳させたものを,ニコラが彫琢することによってラテン語版が成立した。それをさらに洗練されたラテン語に移したジャック・シャルパンティエの訳もある。流布版が長大版に先行するという説が優勢ではあるが,長大版から流布版に移行したという主張が消えたわけではない。長大版の研究はまだ緒に就いたばかりなのである。 底本には,Sapientissimi philosophi Aristotelis stagiritae. Theologia sivemistica philosophia secundum Aegyptios noviter reperta et in Latinumcastigatissime redacta, ecphraste Petro Nicolao ex Castellaniis, Roma, 1519を用い, 常時Libri quattordecim qui Aristotelis esse dicuntur, de secretiore partedivinae sapientiae secundum Aegyptios, per Iacobum Carpentarium, Paris, 1571を参照した。底本のニコラ版は句読点が不正確で誤植も散見されるので,シャルパンティエ版を援用しつつ文脈を解釈しなければならなかった。流布版『アリストテレスの神学』にみられない箇所は太字で明示した。ただし,解釈者の視点の差によって,太字箇所の確定は議論の余地のないものとはなりえないことをお断りしておきたい。私の立場は,哲学的に重要で長大版に特有な思想を識別できれば,それで充分というものである。[ ]内はフォリオ数である。言うまでもないが,見開きにすれば,rは右頁,v は次の紙の左頁になるのは注意を要する。{ }内は文意を明確にするための,訳者による補足である。 今回訳出した長大版第三・第四章で注目すべき更新は,第一・第二章でも注目したように,流布版以上に『エンネアデス』の新プラトン主義にアリストテレス的要素を附加している点である。たとえば,流布版の「質料」や「知性」を,それぞれ「第一質料」[15v](cf.[19v])と「可能知性」[22v]へと増幅しているのである。そして,たんにアリストテレス的学術用語を使用するだけにとどまらず,[17r]においては,流布版が与えた「肉体の完成」という,魂のいわば省略的定義を,「器官をそなえた自然物体の現実態」とすることによって,『魂について』B巻冒頭のアリストテレス本来の定義を正確に踏襲する文言に書き改めている。もっとも,知性だけでなく魂全体を不滅で離存可能な現実態とすることによってアリストテレスに背き,流布版同様,プラトニスムを堅持する側面も急ぎ指摘しなければ,不公平となるであろう。アリストテレスではその意図が不分明であった船乗りと船の比喩は,騎手と馬の対も加えられて,魂の肉体からの離存性を暗示するものと解釈されるに至る。 魂が睡眠時には肉体から離脱し予言と啓示を受けるという加筆は,長大版翻案者の思想的背景を推測させるものとして興味深い。[23r]でも,霊的なものどもが神的なしかたで啓示される対象であると言われている。ひと・ものの繊細な内面の洞察を「秘された知恵」(sapientia arcana)と呼び,秘された知恵を考察するこの書物を自ら『神秘哲学』(philosophiamystica)[22r]と銘打った著者のうちでは,啓示と神秘的洞察はいかに交錯するのであろうか。 それはさておき,今回訳出した範囲内で指摘すべき最たる革新は,[14v]に見られる,神が言葉(verbum)を媒介にして知性を創造したという主張であろう。神と知性の間にべつの存立を仮設しない点では,流布版は『エンネアデス』から逸脱していなかったからである。『エンネアデス』にも流布版にも対応箇所をもたない長大版特有の思想として,創造主と知性の間に措定される「言葉」(kalimah,λόγος)の教説がボリソフ以来夙に指摘されてきた。これはおそらく,万物を命令形「在れ!」(kun)の一言で創造する神の言葉であり,神の意志,力,命令,知と関連するかもしれない。前回訳出した第一章[1v]では,その種の「言葉」という術語は見当たらないものの,神と知性の間に「もろもろの叡智」(intelligentiae) が措定されていた。以後の章でも,この新傾向の展開は見逃してはならないであろう。

identifier:402002

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