ワーズワス兄妹とコールリッジのドイツ滞在:1798-99年 : ワーズワス=スパイ説の構築と崩壊

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Other Title
  • ワーズワス ケイ イモウト ト コールリッジ ノ ドイツ タイザイ:1798~99ネン : ワーズワス=スパイセツ ノ コウチク ト ホウカイ
  • ワーズワス キョウダイ ト コールリッジ ノ ドイツ タイザイ:1798-99ネン : ワーズワス=スパイ セツ ノ コウチク ト ホウカイ
  • The Wordsworths'and Coleridge's Sojourn in Germany, 1798-99 : The Construction and Demolition of Wordsworth=Spy Hypothesis

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Abstract

ワーズワス兄妹とコールリッジは『リリカル・バラッズ』初版が公刊される間際の1798年9月にドイツに渡り、まずハンブルクに滞在した。この後二人の詩人は別行動をとり、コールリッジはラッツェブルクからゲッティンゲンの大学へと移動して、ドイツ語を習得し、当時文化的に進んでいたドイツの哲学、思想、文学を学ぼうとした。ワーズワスのほうはドイツの知的風土の中でドイツ語を体得しつつ、かねてからコールリッジに期待されていた、フランス革命の時代の価値観を体現する大哲学詩に着手しようとした。しかし当時のドイツはワーズワス兄妹にとって過ごしにくく不愉快な場所であり、彼らは具体的な成果をあまり得られなかった。そもそもワーズワスのドイツ滞在の意図はあいまいで、当時の情勢や1990年代に確認された文書などから、特にワーズワスがこのドイツ滞在の足取りが不明な期間に、英国内務省関係の諜報活動に関与していたのではないかという憶測が生じた。これに関しては、『リリカル・バラッズ』刊行二百周年の1998年にケネス・ジョンストンが『隠されたワーズワス』の中で詳細に検討した。この仮説はわずか二年後に否定されたが、その議論の過程においては歴史的、伝記的に文学、文人を研究する際に興味深い応酬があり、また文学・歴史研究者が改めて考える必要のある問題が注目された。この論文では改めて、この「ワーズワス=スパイ説」の概要とそれが否定された顛末を振り返って概観する。ワーズワスは得るものが少なかったとの思いで1799年5月初めに帰英し、一方コールリッジは息子の死の知らせを経てなおドイツで研究を続け、7月下旬にようやくサマーセットの家族のもとに戻る。後から振り返り考えると、結果的に彼らのこのドイツ滞在はそれぞれに独特の価値を帯びる重要な期間であった。

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