⽂化的資源としての科学論争:戦後⽇本におけるルイセンコ論争と「⺠主的」遺伝学

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  • A controversial idea as a cultural resource: The Lysenko controversy and discussions of genetics as a ‘democratic’ science in postwar Japan

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ソ連の農学者トロフィム・D・ルイセンコの学説に対する議論が⽇本で始まったのは、戦後 の⽶占領下の時代だった。終戦後まもなく、⽇本の左派系研究者が戦後科学者運動の⼀環と してルイセンコの学説を⽇本に紹介した。⽶国の遺伝学者の多くはこの学説を厳しく批判 していたが、当初、⽇本の遺伝学者は、賛否どちらかの⽴場をとることなくルイセンコ説の 議論に参加した。というのも、遺伝における細胞質と環境の役割について科学的関⼼があっ たため、⽇本の遺伝学者の多くはこの学説に対し当初は共感的と⾔える⽴場をとっていた のである。しかし、冷戦によって東⻄の分断が深まってくると、⽇本の遺伝学者も、⽶国の 科学者に倣って、ルイセンコ説を厳しく批判し始める。ただ、興味深いことに、ルイセンコ 議論において⽇本の遺伝学者が⽬指していた⼤きな⽬標は、終始ほぼ変化していない。その ⽬標とは、遺伝学分野を効率よく再建し、分野の適切なイメージと権威を維持することだっ た。この⽬標を保ったまま、彼らの学説への反応の仕⽅は⼤きくシフトするが、その理由は、 政治社会的な背景のシフトにあった。特に、(⽬指すべきとされた)「⺠主的科学」の意味 が、 “⺠主的プロセスを採⽤する科学” から “⾃由⺠主国家の科学” へとシフトしたことが 要因として挙げられる。この論⽂では、ルイセンコ説を⽂化的資源(cultural resource)と みなす分析的視点を⽤いているが、この視点は、ルイセンコ説の扱われ⽅が場所によってど のように異なり、またなぜ異なるのか、さらに、論争が状況により⽣じたり⽣じなかったり するのはなぜか、ということを説明することに役⽴つであろう。

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