大江健三郎『水死』と『みずから我が涙をぬぐいたまう日』 : フィクションはいかにして生成するか

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抄録

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大江健三郎『水死』は、父の過去の言葉や行動について解釈しようとする主人公長江古義人が、他の人々が父をどう解釈したかと向き合い、また自身の解釈の欲望自体も周囲の人から様々に解釈され、そうした多方向的な解釈のネットワークの中で自らの言菓を紡いでいく物語である。 それはつまり、言葉を発すること、言葉を受け止めること、受け止めた言葉に解釈を加えて発し直すことの問題が、誰も特権的な安定した位置に身を置けないものとして扱われているということでもある。『水死』の作中世界の出来事においては、小説家長江古義人は、一方では一人称の語り手であるが、他方で特権的な言葉の統御者ではなく、他の発言者や解釈者達とのネットワークの中の一つのノードに過ぎない。『水死』において、長江古義人という作家は言葉との関わりにおいて常に能動的にのみ関わるのではなく、同時に受動的でもあらざるを得ず、古義人の言葉の世界はそうした相互作用の中に生成することになる。 古義人の欲望自体が解釈の俎上に載せられるとき、素材となるのは古義人の過去作品である。『水死』において古義人の過去作品として登場するのは、いずれも大江健三郎の過去作品のタイトルそのままとなっている。それらの作品の中で、登場人物達によって最も多く引用され、対象化され、問題化されている古義人の過去作品は、『みずから我が涙をぬぐいたまう日』である。本稿は、この『みずから我が涙をぬぐいたまう日』と『水死』との関わりを考えることによって、『水死』において示されるフィクション生成の問題を明らかにする試みである。

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言語態, 12号, 2012.12, Page 45-66

収録刊行物

  • 言語態

    言語態 12 45-66, 2012-12

    言語態研究会

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