[論文] 南北戦争と東アジア : 一八六一年徳川家茂=A・リンカーン往復書翰をめぐって

書誌事項

タイトル別名
  • [Article] East Asia and the Civil War in 1861 : International Relations around the Sovereigns’ Letters Exchanged between Shōgun and Lincoln

この論文をさがす

抄録

一八六一年は、老中久世広周と安藤信正らが、前年に倒れた井伊直弼により着手された和宮降嫁を実現する過程と理解される(文久元年十二月十一日、江戸城入輿)。そのため、幕府は対外政策に対する朝廷の意向を汲まざるを得なくなり、両都両港開市開港延期のため条約締結国へ将軍書翰を送ることとなった。そのうちアメリカは、大統領リンカーン親書としてこれに答えた。このことはこれまでほとんど検討されることはなかった。したがって、彼の親書がどのような内外の政治を反映したものであるか、親書が幕府の政策にどのような影響を与えたか、について意識されたこともなかった。本稿は、リンカーンや国務長官スワードの動きを分析するため、オランダを始め、イギリスなどの情報を用い、米国公使館通訳ヒュースケンの襲撃殺害事件をきっかけとするアメリカの対日強硬政策の形成とその転回を明らかにする。それらの情報は、各国の、南北戦争勃発直後のリンカーン政権への評価とつながっている。同政権は北軍の困難を背景に当初煽動した対日実力行使を放棄し、条約違反行為に対するペナルティを含意する条約遵守の要求へと転換する。幕府は外国人殺傷に対する金銭賠償要求を受諾し、このことはオランダ(船長殺人事件)、イギリス(東禅寺事件)、フランス(旗番負傷事件等)へも波及した。その後賠償要求が、幕府の外交を困難に陥れたことはよく知られている。南北戦争と環大西洋世界の国際政治はリンカーン政権の対日政策転換をもたらし、幕府外交は隘路にはまっていくのである。

収録刊行物

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ