「孤立政策」から「協商」へ-イギリス外交政策の転換? : 19世紀末から20世紀初頭に至るイギリス外交政策についての考察

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  • From "Splendid Isolation" to "Alliance"? : A Study on British Foreign Policy from 1898 to 1907
  • コリツ セイサク カラ キョウショウ エ イギリス ガイコウ セイサク ノ テンカン 19セイキマツ カラ 20セイキ ショトウ ニ イタル イギリス ガイコウ セイサク ニ ツイテ ノ コウサツ

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抄録

第一次世界大戦はヨーロッパ大陸内においては, イギリス・フランス・ロシアの三国協商に対してドイツを中心とする三国同盟の対立として一般的には理解される。そしてこの対立は, 19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリスの外交政策が<ドイツとの同盟交渉(1898〜1901年)→その失敗→フランス・ロシアとの接近→三国協商の成立→三国協商対ドイツ→第一次大戦の勃発〉と直線的に解釈されることによって, あたかも大戦勃発の大きな要因として協調されることとなった。しかしながら, イギリスにとってドイツとの同盟交渉の失敗だとか, あるいはそもそもドイツにその意志がなかったといった問題は, 実は第一次大戦の原因の考察に関してはあまり重要ではないのである。第一次大戦に至るイギリスとドイツの対立は, むしろイギリス自身の問題に帰因していた。イギリスはこの時期に, 「帝国の防衛」という目的のためにロシアやフランスとの和解を必要とした。そして両国との和解を維持するために, イギリスは結果的にドイツと対立してしまったのである。つまりイギリスは, ドイツの脅威に直面して, ロシアやフランスと和解し協商を結んだのではなく, ロシア・フランスとの和解の結果, ドイツと対立してしまったのである。イギリスにとって, ドイツとの対立はフランス・ロシアとの和解の代償なのであった。 そしてイギリスのこうしたロシアやフランスと和解を求める外交政策は, 19世紀から継続するものであった。従って, この時期をもって特に「孤立政策」から「同盟体制」へとイギリスの外交政策が転換をしたとみなす見解は否定されるのである。

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