十返舎一九の描いた大坂

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抄録

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東海道中膝栗毛八編冒頭のくだりには当時の大坂の様子がうまくまとめられている。「押照や難波の津は・海内秀異(かいだいしゅうい)の大都会にして・諸国の賈船(こせん)・木津安治の両川口にみよしをならべ、碇をつらねて。ここにもろ々の荷物を鬻(ひさ)ぎ、繁昌の地いふばかりなし」大坂は水の都・当時の川口の様子は「出船千艘入船千艘」とよばれていた。河村瑞賢の西回り航路開拓、淀川治水工事後、江戸大坂を往復する菱垣廻船、樽廻船、北国(ほっこく)から入る北前船が安治川、木津川口に着いた。ここから大坂市中に縦横に延びる堀川を、茶舟や上荷舟に小分けされた物資が市中に運ばれた。中之島や堂島、その対岸の大川端には百数価十の蔵屋敷が並び、全国の米や俵物がここに集められた。この多大な物資が多くの商業基盤を産み出し、町人の街をつくりあげた。江戸時代を通じて大坂の人口は約40万、武士はそのうちわずか2000~3000とされ、100万の人口のうち約半数が武士であった江戸とは性格の異なる都市であった。大坂は江戸時代には国内随一の観光都市であったとされる。四天王寺のような古刹、大店(おおだな)老舗の集まる船場、芸能の中心道頓堀と江戸・京にはない調和があった。十返舎一九は弥次郎兵衛、喜多八(以後弥次・北)というキャラクターを使い大坂観光を滑稽に描いている。八編のストーリーどおり、大坂の名所を巡った弥次北の足どりをたどり、江戸時代の大坂の様子を現代の姿にも重ねながら描いてゆく。

収録刊行物

  • 研究紀要

    研究紀要 44 29-37, 2011-11-18

    大阪教育大学附属高等学校池田校舎

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