父島洲崎の変遷について(その1)
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説明
洲崎は父島のほぼ中央に位置し、その地名は、1765年に幕府の名により巡見を行った嶋谷市左衛門によって付けられた。1827年、英国軍艦の艦長ビーチーは本諸島の領有を宣言する銅板を洲崎の樹木に打ち付けた(その銅板は現在オーストラリアにある)。1830年、最初の定住者セーボレー達は洲崎に居を構えた。1852年、ペリー提督が父島に来航し、洲崎にあった大洞窟の記録を残している(その大洞窟は少なくとも1945年までは残っていたが、現在はなくなっている)。1861年、小笠原回収のため幕府の水野外国奉行ら一行は咸臨丸で父島に来航、当時の洲崎の様子を記録した。
収録刊行物
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- 小笠原研究年報
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小笠原研究年報 (32), 49-69, 2009-05-31
首都大学東京小笠原研究委員会
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詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1050564288225005568
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- NII書誌ID
- AN00289259
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- ISSN
- 03879844
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- HANDLE
- 10748/3973
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- 本文言語コード
- ja
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- 資料種別
- departmental bulletin paper
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- データソース種別
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- IRDB