章炳麟の経学に関する思想史的考察 : 春秋学を中心として

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  • ショウ ヘイリン ノ ケイガク ニ カンスル シソウシテキ コウサツ シュンジ
  • An Interpretation of Chang Ping-Lin's Study of the Ch'un-Chiu : An Essay in Interllectual History of China

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抄録

章炳麟(一八六八年~一九三六年)は清末民國初にかけて生きた、思想家として、また魯迅が最後まで師と仰いだ人物としても知られている。章炳麟の思想についてはこれまで、民報の主筆として民族主義革命をささえた革命家としての政治思想や、あるいは佛教や荘子の思想を中心とするその獨特の哲學に關して、國内外の多くの研究者の手によって様々の角度から研究されている。 ところで章炳麟は日本に亡命中、魯迅らの留學生に對して説文解字を講義したという點からも知られるように、經學者でもあった。また章炳麟は晩年には國學大師として知られた。章炳麟は若い時には、阮元が始めた清朝の考證學の傅統を繼ぐ詁經精舎で、清末の大儒兪樾のもとで學んでいる。その後、一度は康有為の變法に賛成したが、やがて康有為の立憲君主主義の政治主張と訣別し、民族主義革命を主張して民報の主筆となった。晩年は中華民國政府と一定の距離を保ち、蘇州で國學を弟子に教えることで晩年を過ごした。 従来の章炳麟の經學の研究は、政治的に敵對する變法派を支える公羊學派との對比において、政治思想とのかかわりから論じられることがほとんどで、經學史の上から詳しく論じられたことはほとんどなかった。論じているものについても清代の考證學・漢學の一つのバリエーションとしてしかとらえられてこなかった。しかしながら章炳麟の經學は經學史の上から見ても獨特のものであって、經學史上重要な位置にあると考えられ、さらにまた章炳麟のユニークな思想の出發點として考えなければならないものである。また従来清末今文學派についてはその主張が研究されているが、古文派についてはその具體的な主張について詳細な研究は進んでいない。そこで本稿では、まず章炳麟の古文學としての春秋學の特徴を考察し、次にそれが經學史上のどのような位置にあるかを考察したい。

在此之前,有關章炳麟思想的研究,大多着重於其政治思想以及獨特的哲學思想方面、而對其經學思想的研究却很少。然而従經學史的角度来看,章炳麟的經學思想佔有重要的地位。 本文想就章炳麟經學當中的春秋學作一考察。主要考察章氏春秋學的思想變化及其特徴。 章炳麟最初採用漢儒之説,後来採用杜預的釋例。在其晩年的著作『春秋左氏疑義答問』中,將春秋定義為紀年體的歴史書。章氏認為春秋的記録法是由周宜王的史官制定的,春秋是孔子將散亂的「魯史舊文」恢復成本来的「魯春秋」。此時,魯太史左丘明根据周太史保存的記録,幇助孔子修訂春秋,而孔子譲左丘明寫博, 他自己親自修訂「魯春秋」的一部分。由此章炳麟認為孔子在春秋一書中保存了周宣王的史官的記録法,但并不認為春秋記述法本身反映了孔子的思想。此外,他對共同修訂春秋經文的左丘明有較高評價。這是章炳麟不同於杜預之説而提出的獨特的観點。 上述章炳麟的經學思想的成立過程及其原因有以下幾點。他認為清代漢學存在着過度重視訓詁的缺點,主張應當重視其經文之「義」。此外,他反對康有為的認為春秋一書存有口頭相博的微言大義的説法。 章炳麟在一九三五年國學講習會的講演録中有闘六經的看法正是基於他的春秋學而得出的結論。 總之,章炳麟的經學一方面注意到清代考据學的鋏點,叧一方面,反映出他的尊孔思想。章炳麟是介乎清代考据學和辛亥革命以後的國學之間的存在。

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日本中国学会報, 43, 1991, Page 201-215

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