Natural History and Amateur Scholars in Japan from the Seventeenth to Nineteenth Centuries

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  • 17-19世紀、日本における博物学とアマチュア学者について

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抄録

18世紀後半から19世紀後半にかけての約100年間は、洋の東西をとわず、博物趣味ブームがおこった時代であった。様々な職種および、階層の人々が、家庭で鳥や昆虫を愛で、草花の栽培を楽しみ、珍しい貝殻、化石、石などをコレクションした。人々は互いの自慢のコレクションを見せ合うことを楽しんだ。ヨーロッパでの博物学の隆盛を後押ししたのは、大航海時代からの異国への探検調査、蒐集にあった。王侯貴族などは、航海や探検のパトロンとなり、異国の動植物、珍しいものを持ち帰らせ、自らのコレクションとし、百科全書の項目が増えていった。一方、日本では、ヨーロッパ諸国とは異なり、外国への調査、探求航海は禁じられており、外国の書籍、文物の流入は限定的であった。しかしながら、8代将軍徳川吉宗の政策により、あまねく諸国での薬品の材料となる動植物などの調査が命じられたことにより、各地の動植物についての細かな違いや亜種などが調査、蒐集された。互いの知識を高めあい、書物からの知識だけでなく、実際のものから考究するために、動植物、貝、石などの標本を蒐集する人々もあり、それまでの本草学から博物学へとかわっていった。大名や学者などを中心に同好会が作られたほか、本業を別にもつ、アマチュア学者の活躍も顕著であった。なかでも、稀代の蒐集家として知られる大阪の木村蒹葭堂(1736-1802)の多岐にわたる活動は目を見張るものであった。『蒹葭堂日記』によると、44歳であった1779年から67歳で没する1802年まで(途中4年分を欠く)、ほぽ19年余りの間に6500人、延べにすると39,000人の名がある。儒学者、蘭学者、医者、本草家、画家、文人、幕臣、植木屋、版元などさまざまな職種、身分の人々が、北は松前から南は薩摩種子島まで、時にはオランダ商館長も江戸参府途中に訪れ、遠隔地の人とは書翰で交流を深めた。蒹葭堂は文物の蒐集のほか、その画才と本草学の知識をいかして、山水画や植物・動物図譜、本草学の写本を残した。木村蒹葭堂宅の近くには、懐徳堂があった。懐徳堂を訪れるために全国から来た人のなかには、木村蒹葭堂宅の書籍や珍しい文物を見る人もあった。木村蒹葭堂宅への訪間は、書籍やものから得る知識だけでなく、木村蒹葭堂との会話から得られる知識、さらには、関心の近い人々への紹介なども得られたであろう。木村蒹葭堂は、学問を生業としていたわけではない、商人学者であったが、懐徳堂にも近いという地の利と、蒐集した書籍とモノ、そして本人の評判が、多くの人を集め、また、人々が寄ることにより、さらに情報が得られていくことになった。この時代、木村蒹葭堂のような、アマチュアのコレクター、学者のような存在が、さまざまな職種、身分を超えて、広く人々を媒介する存在となり、博物学の充実と発展に貢献した。

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