Acceptance of Russians in Japan : Some Historical and Cultural Aspects of Russo-Japanese Relations During Last 100 years

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  • 〈世話好きな継母の日本〉一〇〇年にわたる来日ロシア人の受容からみた日露交流の特徴
  • セワ ズキ ナ ママハハ ノ ニホン イチ〇〇ネン ニ ワタル ライニチ ロシアジン ノ ジュヨウ カラ ミタ ニチロ コウリュウ ノ トクチョウ

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日本の「近代化」は「西欧化」であったとされるが、明治・大正期の日本人の概念ではロシアも当然ヨーロッパに入っていた。しかし、開国以降の日露両国の交流はさまざまな分野で進んだが、他の欧米諸国と比較すればかなり遅れていたと言わざるを得ない。第一次世界大戦以前には、日本に居留する外国人のうちロシア国籍をもつ者は、欧米国籍者の第六位だった。しかしながら、一九一七年のロシア革命後に、日本に亡命ロシア人(白系露人)が数千人も移住し、在日ロシア国籍者が急増する。一九二〇―一九四〇年代の日本で〈白人〉といえば、英・米国の出身者ではなく、むしろ「白系露人」だったのである。彼らの主な居住地は、外国人が多く、「西欧化」された関東(東京・横浜)、関西(神戸)、そして気候・風土がロシアに近い北海道(函館、旭川)などであった。従来多民族・多言語の国であったロシアの出身たちは、日本当局は彼らを皆、自称に関わらず「ロシア人」とみなした。 一九二五年一月の日ソ基本条約の締結後、日本のロシア人は、「ソビエト人」と「無国籍白系露人」の二つに分けられることになる。白系ロシア人たちには様々な身分を持つ者がいたが、一方、ソビエト人は主に政府機関関係者であった。戦後、白系ロシア人が激減し、一方、日ソ国交回復(一九五六)後に来日ソビエト人が急増した。とりわけ、一九八五年に始まったペレストロイカ以降、従来の外交官や他の政府関係者に加えて、民間団体や一般市民にとっても日本入国が比較的に簡単になった。短期滞在の観光客のほか、両国の大学間交流に伴い、日本留学を目指すロシア学生の数も増加した。二〇一八年度に日本に出入国したロシア国籍者の総数は約七万人で、同年度に日本に居留するロシア人の数は、ヨーロッパ人の中で英・仏に次いで三位だった。 一九九一年末ソ連が一五カ国に分かれたが、それらの諸国の市民たちが日本を訪れる際に使用する共通語はロシア語である。彼らの数を加えれば、在日居留する旧ソ連人の総数は年度によって1万人以上になる。在日ロシア人同士の交流を保持するために、関東に在住するロシア人は、一九九三年に〈ロシア・クラブ〉を設立した。クラブにはホームページもあり、旧ソ連諸国の出身者も参加しており、共通語はロシア語である。 日本では、ソ連をロシアと、ロシア人をロシア国内の少数民族と混同する場合がまだ多い。言語についても、旧ソ連の出身ならばロシア語も流暢であるはずと一般に考えられるが、そうとは限らない。一方、旧ソ連諸国の出身者は、日本在住中に民族を問わずロシア語取得者として雇われるケースが多い。

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