ムソビシの時代:1821年−1842年のシャムによるクダー占領期(part.2)

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  • Era of “Musuh Bisik” : the occupation of Kedah by Siam from 1821 to 1842(part.2)

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抄録

本稿は第2号掲載論文の後半である。 19世紀初頭のマレー半島中部において、英国東インド会社(EIC)の拠点ペナンは有力な交易中心としてアヘン貿易を含み周囲の港市を引きつけた。シャム南部の有力港市ナコンシータマラートは政治力ある領主ノーイが華人系領主を持つソンクラーと対向して半島西側への勢力拡大をもくろんだ。 文字史料によると、1821年11月21日にナコンシータマラートはクダーを占領し、多数の捕虜を連れ帰った。タイ史料ではナコンシータマラートはシャム中央宮廷に朝貢国クダーがブンガマスの貢納を怠ったこと、ビルマからシャム掃討の協力をうけたことをシャムへの背反とみなして懲罰の理由とした。一方クダーとペナンEIC にとってはナコンの攻撃は奇襲であり、クダースルタンはペナンに逃げ込み、クダーから多数の避難民が流入した。事件に関してはシャム側の認識とクダーとEIC 資料の認識は齟齬がある。クダーとEIC はナコンのノーイの計画であると断じている。ナコンシータマラートはクダーとさらに南方のペラを自らの直轄領とすることをシャム宮廷から承認され、ライバル港市であるソンクラー領主の動きを封じた。 1822年のクダー攻撃から1844年までのナコンによるクダー占領期をクダーでは「ムソビシの時代」と呼び、苦難の歴史記憶は文字記録をもたない内陸農村の伝承としていまも受け継がれている。民衆はシャム兵士によって殺戮されるか、捕虜となってシャム側へ移送された。ノーイの息子たちの仏教徒領主の統治下のクダーでは反シャム的機運が高まり、占領直後からクダースルタンの親族やクダー民衆による蜂起が相次いだ。 クダー奪還のため、反シャム蜂起を試みたトゥンク・クディンの乱(1832)は失敗に終わったが、1838-39年のモハマッド・サードとワン・マット・アリの乱はクダーの外のソンクラーを包囲、パタニの一部に迫った。ワン・マット・アリはクダー西海岸のランカウィー周辺の海域でシャム側兵士のムスリムとも戦った。この戦いではジハードも叫ばれ、クダー以外からのムスリム義勇軍の参加も報告され、戦乱は一時ソンクラーの包囲まで至った。 ナコン軍の反撃によりこの反乱も鎮圧されたが、首都のラーマ3世王は南部の状況が首都に伝わらず、情報収集により南部の国主たちが禁制のアヘン交易にかかわっていること、意図的に情報を提供しないことに不快感を示した。 その後1839年にノーイが急死したため流れが変わった。シャム中央は仏教徒によるクダーのマレームスリム支配を諦めた。クダーは分割統治された上で、クダースルタンの親族とスルタンの復帰がかなった。 この「ムソビシの時代」については戦いに参加した村落の英雄などの記憶が数多く残る。それらは、EIC が集めた詳細な記録とは異なり、文書化されたものはほとんどない。しかし、村落での反シャム反乱の記憶は村に残って受け継がれた。 この民衆の記憶伝承としての「文字化されていない歴史記憶」はクダーの歴史にとって重要な情報が含まれている。 内陸農村部の記憶伝承調査により、クダー農村マレー人ムスリムには以下のような歴史認識があることがわかった。一つはシャムへの恐怖と悪感情が長く残っていること。二番目はクダーが異教徒に占領されたことがマレー世界のムスリム戦士がアチェやパタニ、などから義勇軍として参加する契機となり、反シャム、ジハードとしての戦いを称する動きを生んだ。そして、最後に、文字記録のない歴史伝承として伝えられた「ムソビシ」の英雄譚は、なかには伝承が飛躍した物語に発展する例もあるが、クダー民衆が「シャムと英国による植民地支配時代」を意識し、公的歴史ではない「私たち自身の歴史」を求めていることもわかった。研究者が解明して示す「史実」に満足しない人々による「歴史の実践」が持つ意味はまた現代を映す鏡である。

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