[論文] 中世日朝通交貿易における船と航海

書誌事項

タイトル別名
  • [Article] Ships and Voyages for Trade between Medieval Japan and Korea

この論文をさがす

説明

本稿は,中世日朝交流を支えたインフラとしての海上交通の実態を明らかにしようとするものである。日本側の最大の窓口であった対馬にフィールドを設定し,対馬―朝鮮間を往来する船とその航海の実態について,①「使船」(通交貿易船)の規模,②「飛船」(飛脚船)の規模,③乗員と積載重量,④航海の実際,⑤造船・修理・船具の観点から考察を進めた。 とりわけ①と②については,以下の結論を得た。朝鮮側の法制によって,日本側は4~5反帆(推定:全長9.24m 以下,積載重量9.3t以下)程度の小型船を「使船」として使用することが義務づけられていた。その型式としては,荷船と小早が存在した。基本的には荷船が使用されたが,対馬宗氏が朝鮮に使節を急派するときには小早が使用され,飛脚船という意味で「飛船」と称された。いずれも帆走と櫓漕ぎを併用するものであったが,荷船が帆走をメインとするのに対し,小早(飛船)は櫓漕ぎをメインとした。 こうした動力源の違いは,航海のあり方を規定するだけでなく,経済・社会のあり方をも規定するものであった。通交貿易を担う対馬の商人は,村落の地侍層であり,彼らが使用した小型の荷船は帆走をメインとしたもので,船員を最小限に抑え,より多くの貨物を積載するという経済的な合理性を追求する航海を行った。それゆえ,対馬から朝鮮への渡航は,晴天・順風・潮流などの好条件がそろう春季(旧暦3月)に集中するという傾向がみられる。荷船の航海には季節性があり,春季の朝鮮渡航を起点とする1年の経営サイクルが存在したことを示唆する。 小早(飛船)は,小型船であっても30人程度の船員(水手)の動員を必要とした。船員には操船のための力量(経験・知識と技術・体力)が要求されるため,宗氏はその夫役を対馬北端の「渡口」(出港地)である鰐浦と周辺村落にのみ課していた。こうした櫓漕ぎをメインとする小早であれば,天候や海況の制約を乗り越え,対馬海峡を快速で縦断することができたのである。

収録刊行物

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ