久野庄太郎の地域総合開発構想における愛知用水と愛知海道(第二東海道)の関係性 : 個人雑誌『躬行者』の記述を手がかりとして

書誌事項

タイトル別名
  • ヒサノショウタロウ ノ チイキ ソウゴウ カイハツ コウソウ ニ オケル アイチ ヨウスイ ト アイチ カイドウ(ダイニ トウカイドウ)ノ カンケイセイ : コジン ザッシ 『 キュウギョウジャ 』 ノ キジュツ オ テガカリ ト シテ
  • Relationship between Aichi Irrigation Project and Aichi Seaside Road Project as parts of Mr. Shotaro Kuno's Regional Integrated Development Plan, written in the community paper 'Kyu-Kou Sha (The Practitioner)'

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抄録

2021 年9 月30 日に通水60 周年を迎えた日本の戦後初の地域総合開発事業である愛知用水は久野庄太郎という篤農家が、その発起人であったことが今日ではよく知られている。ところが、久野がその後、愛知海道(第二東海道)という三重県と静岡県をつなぎ愛知県を東西に横断する自動車専用道路を構想し、その建設推進にあたってきたことは忘れられたままとなっている。その道路は、今日の伊勢湾岸道や国道23 号バイパス(名豊道路)などとして約60 年の歳月をかけて実現され、愛知県のみならず日本の経済発展を支える重要な道路網のひとつとして、ようやくその真価を発揮しつつある。これまで愛知用水と愛知海道(第二東海道)が併せて語られることはなかった。しかし、愛知海道(第二東海道)建設期成同盟会の幹事として参画していた久野は、愛知用水から愛知海道(第二東海道)に連なる地域総合開発構想を、みずからの個人雑誌の『躬行者』に1962年から1971 年まで毎月全100 号にわたって書き綴っていたのである。本稿では、『躬行者』を手がかりに、愛知用水と愛知海道の関係、愛知海道(第二東海道)構想について考察し、久野の地域総合開発構想の一端を明らかにするものである。その特徴は幹事役あるいは世話人として、本人がいうところの「小使い役」としてさまざまな現場のさまざまな人びとの間をかけずりまわり、その場その場で得た情報と人脈を元に、新しい地域開発の枠組みをつくりあげていくものであった。なぜリーダーとして十分の経験と実力を持つ久野が「小使い役」に徹するのか。それは、「私心」こそが地域開発事業の失敗の大きな原因であることを知っていたからである。考察の結果、今まで言われてきた「愛知用水の久野庄太郎」ではなく、「地域総合開発の久野庄太郎」ととらえなおす必要があることが明らかとなった。

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