『今昔物語集』天竺部における釈迦仏入滅の理解

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タイトル別名
  • Understanding of Buddha Sakya-muniʼs Nirvana in the Indian Section(Tenjiku-bu) of Konjaku Monogatari-shū
  • コンジャク モノガタリシュウ テンジクブ ニオケル シャカ ホトケ ニュウメツ ノ リカイ

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説明

本稿の目的は『今昔物語集』天竺部における釈迦仏入滅の理解を解明することにある。はじめに巻第三第二十八話~第三十五話の入滅関連諸説話、および巻第四「仏後」巻の諸説話の内容を概観する(第一節)。そのうえで、二つの観点から入滅の理解を検討する。第一の観点は、釈迦仏の最後の言葉である(第二節)。『今昔物語集』天竺部仏伝はいわゆる「釈迦八相」を踏まえて構成され、とりわけ話数の多い第七「転法輪相」以外は、『過去現在因果経』をはじめとする『釈迦譜』所引の諸経典に依拠することが確かめられている。巻第三入滅関連説話も基本的に『釈迦譜』所引『大般涅槃経』等に拠るが、入滅の瞬間を語る一話は『大悲経』を原拠とする何らかの国書に拠ると推定される。弟子一同に「不放逸」の教えを説く釈迦仏ではなく、一子羅睺羅への哀愍を諸仏に祈る釈迦仏を語ることにより、『今昔物語集』は、釈迦仏一代の教化活動を貫く慈悲の本質、すなわち、しばしば「一子の悲」という語句で表現されるところの慈悲と恩愛との一体性を示したといえる。第二の観点は、入滅後の釈迦仏の身体・力能である(第三節)。現生を生きる一人のひとであった釈迦仏の“生身”が滅び去り、とくに実母など、多生にわたり仏と親密な交わりを結んだ仏の親族において、釈迦仏の存在の一回性、代替不能性が痛切に意識された。他方、滅後も仏の慈悲に与ることを切望する人々は、釈迦仏の霊魂の不滅を信じ、その依り代となりうるもの、あるいは“生身”を超えて存続する新たな身体を想定した。仏舎利や影像がその新たな身体、不滅の霊魂の依り代であり、"生身"の有した"個"としての具体性を弱める反面、時空による制約から解放され、遠隔の地にも拡散・伝播し、未来仏出世の時まで力能を顕現し続けると期待された。何らかの方途を通じて釈迦仏を供養し、一つのささやかな善をなした衆生は、無数の後生の間、絶えず釈迦仏の加護を受け続け、ついに究極的安楽に到達しうる。この世界内の衆生には釈迦仏滅後もその慈悲が及び続けているのであり、末法の世、本朝に生まれた人々も例外でないことを『今昔物語集』天竺部は示唆していると考えられる。

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