[論文] 乾隆帝の勅諭と第2次澳門占領事件

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  • [Article] The Imperial Edict of the Qianlong Emperor and the Second Occupation (British occupation) of Macao in 1808

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抄録

「広東体制」は,質とスケールを異にしながら重層する複数の機能を,その領域を使って同時に統制する,中国側から構成された機構である。1793年のマカートニー使節団に続く,イギリスによる1808年の第2次澳門占領事件(長崎におけるフェートン号事件をその一環としていた)は,中国沿海地方の天津・寧波・舟山と接続する澳門の占領を企て,さらに澳門と省城の間の境界を越えて,深く東アジア海域内に入り込み長崎に到ったという点において「広東体制」の領域の外部に逸脱し,同時に軍隊を率いた海軍少将ドルリーが澳門から省城広州に進入し総督との会見を要求したという点では「広東体制」の領域の内部を侵犯するものであった。この事件に際して両広総督呉熊光は,当初,乾隆帝の勅諭(マカートニー使節団が提出した呈禀中の6条にわたる要求に反駁したこの勅諭を継承し,これに準拠することが広東官僚に指示されていた)を参照することを怠り,イギリス兵による澳門砲台占領の長期化およびドルリーの黄埔・省城十三行への進入を許した廉で罷免・問罪されたが,他方,省城においては乾隆帝の勅諭を踏まえた朝貢儀礼にもとづく謁見を設定し,対等の会見を求めるドルリーの省城入城を許さなかった。その後,第2次澳門占領事件と同様の性格を持つアマースト使節団を経て,「広東体制」を逸脱・侵犯する運動は,かたや1832年のロード・アマースト号(厦門・福州・寧波・上海・山東・朝鮮・琉球),1835年のヒューロン号(福建・浙江・江蘇・山東),1837年のモリソン号(日本の鹿児島・浦賀),かたや1830年のベインズ事件(省城十三行における増築と女性の滞在)・1834年のネピア事件(貿易監督官ネピアによる省城十三行進入および対等のコミュニケーション・会見の要求)という互いに独立した2つのベクトルへと分岐し,やがて前者はアヘン戦争を経た南京条約による五港開港(これはやがて日本の開国にも連動していく),後者は広州入城問題とアロー戦争を経た北京条約による外国公使の北京常駐へとそれぞれ逢着することになる。

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