[論文] 明治後期~大正期日本の梅毒罹患と地域社会 : 栃木県塩谷郡喜連川病院の事例から

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  • [Article] The Prevalence of Syphilis and the Local Community in Early Twentieth-Century Japan : The Case of Tochigi Prefecture's Kitsuregawa Hospital

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抄録

本稿では,明治後期から大正期の栃木県塩谷郡喜連川町において,喜連川病院が行った梅毒診療の記録から,同地域の遊廓の性売女性ならびに地域住民の罹患を考察する。 近世に宿場町喜連川の性売買の場であった飯盛旅籠は,明治以降に新地(松並遊廓)に移転した店と,町中心部に残った料理店の二つに分化し,その両方で性売買が継続された。明治中期に設立された喜連川病院では,二つの場の性売女性と地域住民双方の梅毒等の性感染症治療を手がけた。喜連川病院の処方記録簿と「診断書」から復元される娼妓の罹患は,松並遊廓における梅毒蔓延がきわめて深刻な状況にあったことを示している。娼妓らは梅毒治療を行いながら稼業を継続したとみられ,罹患娼妓の営業を停止するという意味での検梅制度の効果は限定的なものに止まっていたと推測される。こうした松並遊廓における梅毒蔓延状況は,遊客,ひいては地域住民の梅毒罹患リスクを高めたと考えられる。 喜連川病院では梅毒に罹患した地域住民の治療も行っていたが,梅毒患者の居住地は喜連川宿内に集中し,次いで喜連川町域の村々,そして近隣の村や山間部の村々であった。男女とも農業従事者が大半を占めている。喜連川病院の梅毒患者の診療圏は,明治期の喜連川が宿場としての重要性を失いつつあったこともふまえれば,松並遊廓に来る遊客の居住域ともおおむね重なっていたと考えられる。 喜連川病院の花柳病受診者は,この地域の罹患者の氷山の一角ではあるが,罹患者は喜連川宿内に止まらず周辺農村にも幅広く及んでいた。受診によって可視化される既婚女性や子供の罹患の背景には未受診の男性罹患者の存在が前提されることから,強制的な検査(徴兵・娼妓検梅)という契機や,医師の届出にもとづく統計類には捕捉されえない,膨大な梅毒罹患が地域社会内に存在したことが示唆される。

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