近世後期における余荷米慣行論争をめぐって : 椿新田万力村の事例

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タイトル別名
  • キンセイ コウキ ニ オケル ヨ カ ベイ カンコウ ロンソウ オ メグッテ : ツバキ シンデン マンリキムラ ノ ジレイ
  • The meaning debate on adjustment of mutual aid custom"Yonaimai" case of Tsubakisinden Manrikimura

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抄録

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[要旨]椿新田十八カ村の一つである万力村は、農業用水の偏在のため高場と低場のコメの生産量に大きな違いがあったため、延享五年(一七四八)から余荷米慣行という年貢米の調整を行い、高場の農民が低場の農民の年貢を負担する形で村内対立を回避してきた。しかし天保三年(一八三二)の飢饉や万延元年(一八六〇)の災害による不作を契機に負担量をめぐる村内対立が表面化し、余荷米慣行を変更する出願が続いた。村落内の対立を解消するには余荷米の負担量の根拠となる収穫量を確定するために新規の検見取りが必要であったが、高場低場の農民の同意を得るのは困難であった。論争の末、文久三年(一八六三)に検見取りを行う合意が成立した。しかし新規の検見取りは行われることはなく、万力村の農民は自主的な変更を行えないまま、地租改正に伴い余荷米慣行は自然消滅した。

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