果てしなき「方丈」のひろがり(その1) -からだへの「回帰」、あるいはもっと過激に、その「奪還」へ向けて-

書誌事項

タイトル別名
  • The Spread of Eternal “Hojo”(Part 1) -Toward a “return” to the body, or more radically, its “recapture”-
  • ハテシナキ 「 ホウジョウ 」 ノ ヒロガリ(ソノ 1)カラダ エ ノ 「 カイキ 」 、 アルイワ モット カゲキ ニ 、 ソノ 「 ダッカン 」 エ ムケテ

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抄録

本論考は、五回もしくは六回にわたり連載を予定している一連の文章の「序章」に当たるもので、これから連載を進めていく上での「問題の所在」を、全体的な見通しの下、明らかにすることを目的に書かれている。したがって、導入的な書き方に終始した、特殊な文章となっていることを、あらかじめお断りしておく。 今後に続く連載においては、古代都市平安京の空間的なひろがりの中で、自分の「家」を建てることを主題とした具体的な文学テキストを、順次あつかう予定でいる。その際の方法的な枠組みを、あらかじめ設定するため、本論考においては、マルティン・ハイデッガーの『建てること、住むこと、考えること』の文章の内容を、まずはその検討対象としている。 『建てること、住むこと、考えること』においてハイデッガーは、この世界の内に身を置いて、死の影に絶えず付きまとわれながら、つかのまの人生を送る私たちの「からだ(=実存)」のありようを、「住まう」ことに焦点を当てて考えている。その問題意識を踏まえつつ、バーチャルな仮想空間としてひろがる情報社会にあって忘れられがちな私たちの「からだ」と、その「からだ」を収納する容れ物としての居室や家屋、街路や都市のひろがり、さらにいえばこの世界全体との関係を、本論考では、いくつかの事例を通して跡づける。 まずは、高等教育機関としての大学の今日的な存在意義について、さらにはシェークスピア劇の台詞に見える、演技する「からだ」について検討する。その流れを受け、大乗仏典に見える「空」の思想や、たましいの容れ物としての「からだ」をめぐる『源氏物語』や説経『おぐり』の事例にも言及する。

収録刊行物

  • 人文研究

    人文研究 (204), 35-62, 2021-12-25

    神奈川大学人文学会

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