曽槃『薬圃擷餘』考
書誌事項
- タイトル別名
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- A Study on Yakuho Ketsuyo by Sō Han
- ソバン 『 ヤクホケツヨ 』 コウ
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説明
曽槃(1758-1834)は薩摩藩八代藩主島津重豪の侍医である。『薬圃擷餘』は曽槃が18世紀後半から19世紀前半にかけて著述したものである。『薬圃擷餘』には多年の曽槃自身の体験や見聞が記録として残されている。本稿は,調査可能な『薬圃擷餘』五つの写本に基づいて,『薬圃擷餘』の成立過程を考察したものである。現在見られる諸写本はいずれも稿本であるが,①国会本,②内閣本,③岩瀬本,④杏雨本,⑤東医本諸本の書誌学的な比較検討を通じて,それぞれの成立に関する前後関係および写本相互の関係を明らかにした。内閣本と杏雨本は三つの部類から成る三巻本であり,ほかは四つの部類から成る四巻本である。部類の配列や項目数を見ると,岩瀬本は三巻本と四巻本の中間的な存在であることがわかった。 『薬圃擷餘』は先行の本草書や地誌などの多くの引用から成り立っているが,その様々な引用書の中で,注目したいのは『医賸』の存在である。曽槃の師である多紀藍渓及び『医賸』の著者である多紀元簡と関わる記事が本書には散見され,曽槃の活動の具体的な様相,すなわち,薩摩藩の侍医として公的な任務―藩領にある薬圃の管理や薬草の鑑定―に加えて,幕府の医員や他藩の江戸詰の医者たちとの交流の跡が記されている。 曽槃は伝統的な本草知識に束縛されることなく,舶来書籍(『本草従新』『西域聞見録』など)の知識を筆録するとともに,西洋の植物学や薬学への関心を持ち,蕃書が読める蘭学者たちから新しい情報を得ていることが注目される。 曽槃が『薬圃擷餘』で行った新たな見聞や情報を増補していく作業は,当時の本草学者に普遍的なものであると考えられる。「廣東人参」「冬虫夏草」のような例を通じて,多紀元簡『医賸』も曽槃が参照した段階から刪補を経て刊本の形になったことを指摘した。『薬圃擷餘』の中には後継の本草学者たちが残した増補の跡が随所に見られる。学者たちの日々の交流や情報交換の結果が,写本の変化として表れているのである。
収録刊行物
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- 地域政策科学研究
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地域政策科学研究 19 1-24, 2022-03-14
鹿児島大学
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詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1050854882702528768
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- NII書誌ID
- AA11950379
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- HANDLE
- 10232/00031918
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- NDL書誌ID
- 032105277
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- ISSN
- 13490699
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- 本文言語コード
- ja
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- 資料種別
- departmental bulletin paper
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- データソース種別
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- IRDB
- NDLサーチ