[論文] 奥羽から見た越後応永の乱 : 伊達氏の侵入とその背景 (第二部 武家領主の政治的動向)

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  • [Article] The Echigo Oei Rebellion as Seen from Ou : The Invasion of the Date Clan and Its Background (Part II : The Political Trend of Warrior Lords)

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抄録

本稿は、越後応永の乱(一四二〇年代に越後で守護上杉氏と守護代長尾氏とが衝突した内紛)に、隣国から軍事的に介入してきた陸奥伊達氏の動向を辿るとともに、そこから浮かび上がる、同時期における越後と奥羽(陸奥・出羽両国)の南部との間で展開された人的・物的交流の様相を検証したものである。 まず第一章で、乱の過程と、室町幕府・鎌倉府からの関与を確認した。幕府・鎌倉府間の対立から、守護上杉氏は幕府方に、守護代長尾氏は鎌倉府方に組み込まれており、幕府は守護方への軍事的支援を隣国にも命じていた。そのうち、実際に越後に出陣した伊達氏の行動は、幕府重鎮の細川氏との関係性に基づいたものと考えられる。一方、同じ幕府重鎮でも斯波氏と繋がる出羽大宝寺氏は、鎌倉府との関係も良好だったため、中立的に動いていた可能性がある。伊達氏・大宝寺氏のような幕府重鎮を中心とした系列化は、南北朝期から進展していた全国的な動きと同様のものであることを第二章において指摘した。 当時の政治状況から実行された伊達氏の越後出兵であるが、混乱に乗じて、伊達氏は越後北部の奥山荘周辺で拠点確保の動きに出る。この点を第三章で検討し、これ以前に伊達氏が幕府から越後国内で所領を与えられていた例や、越前陶器の出土例から、伊達領国では日本海側からの物資流入が継続していたとみられる点を確認した。室町期の伊達氏は幕府との通交を維持させる必要もあり、越後との関係性を保ち続けたと考えられるのである。 越後と伊達領国の間における人的・物的交流を前提にすると、乱における伊達氏の軍勢も、その一つに位置づけうる。越後と南奥羽との間で展開された広域的な人・モノの動きについては史料的制約から不明な部分も大きいが、さらに前後の時期にも視野を広げ、今後多角的に検討していく必要があるだろう。

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