日本における鉄骨構造建築の導入と発展過程に関する研究 : 官営八幡製鐵所の創設期から昭和初期における工場建築の設計と建設

書誌事項

タイトル
日本における鉄骨構造建築の導入と発展過程に関する研究 : 官営八幡製鐵所の創設期から昭和初期における工場建築の設計と建設
タイトル別名
  • A Study on the Introduction and Development process of the Steel structure building in Japan : On the Design and Construction of Factory building in The Imperial Steel Works, Japan (The Japanese Government-controlled Yawata Steel Works )from the Period of the Foundation to the early Showa era
  • ニホン ニ オケル テッコツ コウゾウ ケンチク ノ ドウニュウ ト ハッテン カテイ ニ カンスル ケンキュウ
著者
開田, 一博
著者別名
  • Hirakida, Kazuhiro
  • ヒラキダ, カズヒロ
学位授与大学
九州大学
取得学位
博士(芸術工学)
学位授与番号
乙第8249号
学位授与年月日
2009-02-27

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説明

明治34年(1901)に官営八幡製鐵所が福岡県遠賀郡八幡村(現在の北九州市八幡東区)で操業を開始したが、操業に先立って、官営八幡製鐵所では本格的な大規模鉄骨工場が建設された。本研究は①官営八幡製鐵所の操業開始時における鉄骨工場建築の建設の背景、②ドイツから導入した鉄骨構造建設技術、③その後の欧米からの鉄骨構造設計技術の移入、そして④わが国の技術者が国産第一号の鉄骨工場建築を設計し発展させた過程を明らかにするものである。なお、研究対象とした年代は明治34年(1901)から昭和初期までである。明治34年(1901)の官営八幡製鐵所の操業に先立って竣工した工場建築には現存する尾倉修繕工場などがあり、わが国における本格的な大規模鉄骨構造建築としては最初のものであった。しかし明治34年(1901)当時はわが国では鉄骨構造の設計能力および経験が不足していたので、工場建築の設計は、当時ドイツの有数の企業であったGUTEHOFFNUNGSH?TTE(グーテホフヌンクスヒュッテ)社(以下、G・H・Hと言う)に依頼された。そしてわが国では、この工場の建設にはドイツ人技術者に建設現場での現地指導を受けながら、機械技術者が工場建築の建設を担当した。以降、官営八幡製鐵所の鋼材生産も順調に推移するに従って、八幡製鐵所の自家鋼材を使用し、自分たちの設計、すなわち、国産による工場建設の気運が高まり、明治42年(1909)に官営八幡製鐵所職員「景山齊」によって、国産第一号となる「ロール旋削工場」が竣工した。この工場建築設計者の「景山齊」は京都帝国大学理工科大学機械工学科を卒業して間もない日本人機械技術者であったことが注目されるが、国産第一号の工場誕生の背景には、大学における鋼構造設計技術教育の充実があったことがうかがわれる。具体的には、明治42年(1909)頃は京都帝国大学理工科大学土木工学科教授の日比忠彦などが「建築雑誌」へ鉄骨構造に関する論文を掲載し、わが国の鋼構造設計技術を大きく発展させた時期であった。国産第一号の「ロール旋削工場」が製鐵所内外に与えた影響は大きく、国内での設計が可能と認められ、軍の工廠建築の設計などを依頼されるまでに発展していった。その後、国内の鉄鋼需要の高まりに伴って、官営八幡製鐵所では拡張計画が進められ、大正5年(1916)には鋼構造設計技術者の不足を補うため、国内技術力の向上に連動して、民間の横河橋梁製作所から鋼構造設計技術を有した建築技術者の招聘を行った。その結果、製鐵所内の多くの工場建築の設計は機械技術者に代わって、民間から招聘された建築技術者によって行われるようになった。大正10年(1921)には民間から招聘された建築技術者は退社し、以後、官営八幡製鐵所における工場建築設計は、建築技術者から土木技術者に移り、昭和9年(1934)の日本製鐵株式会社の設立まで土木技術者による設計が続いた。以上のことから、わが国の鉄骨構造建築の発展に関して次のことが明らかになった。第一に、官営八幡製鐵所において、明治34年(1901)の操業開始に先立つG・H・H設計の工場建築は、わが国最初の本格的な大規模鉄骨構造建築の始まりであった。そしてこれらの工場から始まって、明治42年(1909)の国産第一号工場の誕生に至るまでの鉄骨構造工場建築に関する主導的役割は機械技術者であった。第二に、明治42年(1909)の国産第一号工場の設計者は機械技術者である「景山齊」であった。彼が設計した時期は京都帝国大学土木工学科教授「日比忠彦」が建築雑誌に、当時最新の鉄骨構造の設計技術を掲載した時期と一致する。さらに国産第一号工場の竣工が軍関係の工場建築設計に至ったという事実があり、製鐵所内の技術が国内技術へと広がったことを示している。第三に、大正5年(1916)になると、鉄骨構造建築の設計が民間建築技術者の招聘によって、建築技術者に委ねられることになった。これは民間技術の普及の場ともなり、以後の土木技術者が担当したことも含めて、わが国の鉄骨構造技術発展に大きく寄与した。以上、本研究によって、官営八幡製鐵所における日本の鉄骨構造建築の設計・建設技術が欧米から移入され日本に定着していった発展過程について詳細な知見が得られた。

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