震災復興橋梁の計画とデザイン的特徴

書誌事項

タイトル別名
  • The Study on the Kanto Earthquarke Reconstruction Bridges in Tokyo viewed at Design

説明

永代橋や清洲橋などの隅田川橋梁が震災復興計画 (1924 (大正13)-1930 (昭和5) 年) によって架設された橋梁であることは有名だが、日本橋川や神田川などの運河、堀割に架かる橋の多くが、同じ計画で生み出されたことはあまり知られてはいない。震災復興橋梁 (以下「復興橋梁」) は、明治時代から欧米より吸収した橋梁技術を見事に開花させた成果物と雷われている。しかし、それらは単に技術面だけでなく、他の復興関連事業と一体となった都市計画の中に巧みに位置づけされていた、と推察できる。その特徴を3点あげると次のようになる。1.短期問に都市機能を復活させるためには、橋梁架設も急務を用した。しかし、ただ物理的条件を満足する永久橋梁を架設するのではなく、地域環境を考慮して構造形式の選定がなされた。美観を重視する箇所には種々のアーチ橋が配され、また河川と河川の合流点には原則として一径間の上路橋が架けられた。とりわけ側径間にア-チ形状のラーメン橋台を有する橋は、工期と美観を考慮して架けられたユニークな橋梁である。2.幹線街路に配された橋梁は96橋で、そのうち84橋の橋詰には一橋当り平均約440m2の植樹が施され、幹線街路の植樹総面積の約17%を占めていた。区画整理事業の助けをかり、復興橋梁には原則的に橋詰広場がとられ、貴重なオープン・スペースが整備されていた。3.目本橋 (1911 (明治44) 年竣工) のような華やかな装飾は影を潜めたが、個々の橋にシンボル性を持たセた親柱が造られ、路上および水上から橋の存在感を高めていた。

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390001204326882816
  • NII論文ID
    130003839585
  • DOI
    10.11532/journalhs1981.4.59
  • ISSN
    18848133
    09134107
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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