罪悪感をからくも逃れて

書誌事項

タイトル別名
  • Sense of Guilt Barely Dodged:
  • ―『終わりなき日々』の結末をめぐる右往左往―
  • Juggling with the Endings to <i>Days Without End</i>

抄録

<p>Eugene O’Neillが異例の長時間をかけ苦吟の末に完成した戯曲Days Without End (1934)は説得力を持つものにはならなかった. 本論は草稿類の検討により創作の推移を跡づけ, 戯曲の趣意を探る. その結果, 特に手子摺った結末が明らかにするのは, 中心人物の戯曲の虚構空間での課題が執筆した自伝的小説のモデルとした自らの不倫に行き着いた人生と, その小説に書き込んだ当の不倫の被害者である妻の死を望む底意との都合の良い妥協, もとどおり赦されかつ愛されて生き続ける日々の構築であることがわかる. そして, 伝記的には, それはそのままO’Neillの劇作家としての創作と実人生の妥協の模索, あるいはそのための迷走の実態でもある. 劇中で中心人物が書く小説の結末は, O’Neillが二人目の妻のAgnes Boultonを裏切り実現させた三人目の妻Carlotta Montereyとの日々を蝕む罪悪感の底にうごめくもの, すなわちAgnesの存在を抹消する願望が結晶したものである. さらに, 込み入ったことに, O’Neillの最深奥の真実でもあるこの罪悪感は, この戯曲の執筆中も赤裸な弾劾をやめない. その葛藤に取り組み書き換えるよう執拗に迫る創作衝動は, O’Neill好みの表現ならば“Something behind life”すなわち生の衝動そのものだ. この込み入った難題の打開策, 一個人としての究極の目的は, 弾劾を突きつける自らの内実を塗りつぶし, 創作による自己正当化の偽装以外になかったことが浮かび上がる. 同じくO’Neillの言葉ならば, 自らを“a whited sepulcher”「白く塗りたる墓」とすることである. かくて, もとより自伝色の濃い戯曲Days Without Endは, O’Neill深奥のカトリックの教えへの傾斜を踏まえた宗教色が強いものの, 回心, 自我からの解放あるいは人間理解の新しい段階を表現するなどとする従来の見方とは異なり,「書く人物」が書くことにより自らに関わる現実を操作しようとする企ての形象であり, The Iceman Comethで改めて取り組み, さらに自ら自伝と呼ぶLong Day’s Journey into Nightで続ける探求の先駆けとして捉えることができる.</p>

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参考文献 (2)*注記

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