薩摩藩における外城システム

DOI

書誌事項

タイトル別名
  • Tojo(the outside castle) System of the Satsuma Clan
  • A Case Study of Ibusuki and Konejime
  • 指宿・小根占を中心に

抄録

<BR>I.研究の目的<BR>  薩摩藩は藩特有の外城制度を設け、鹿児島城下町とその近在及び屋久島、口永良部島、七島、道之島などを除く、薩摩・大隅の2国と日向国諸県郡の領域を113の「外城」として区画していた。外城の数は、102あるいは120といわれ一定しなかったが、延享元年(1744)以降は、地頭所92、一所(私領)21、計113になった。天明4年(1784)4月に「郷」と改称したため、外城制度を郷士制度とも呼ぶようになった。<BR>  このような外城制度及び個々の外城(郷)については、諸先学によって明らかにされている。しかし、城下町と外城(郷)における配置的・機能的システムを論点とした研究は、これまで十分には検討されてこなかった。そこで本報告は、「指宿」・「小根占」を中心に、鹿児島城下町と外城(郷)の位置関係や機能・役割という視点から考察を行う。<BR>※なお、本報告は「外城制度」を根幹とするものであるが、城下町をふまえ各外城(郷)の位置関係における機能・役割が有機的に関係し合い、全体としてまとまった機能を発揮している集合体とした外城(郷)を論点としているため、あえて「外城システム」と題した。<BR><BR>II.研究の方法と分析<BR>  各外城(郷)は、その構成規模に大小があり、郷士戸数などによって大郷・中郷・小郷及び私領地に区分されていた。本報告は、その中でも「大郷」に着目して考察を行い、幕末期の『薩隅日琉諸郷便覧』における村数と石高の相関関係を分析した。「出水」・「大口」・「高岡」などの国境付近に位置する郷は、当然のごとく防御目的で村数・石高ともに多く、「大郷」となっている。つまり、村数が多く石高が高いのは「大郷」または「藩の要所である郷(例:帖佐など)」となる傾向が明らかである。その一方、一部例外として、「指宿」・「小根占」は村数も石高も少ない割に「大郷」となっている。<BR><BR>III.考察<BR>  藩主島津家久が「鶴丸城」築城の際、義弘が指摘しているように、鹿児島城下町は海からの防御機能に乏しい。そのため鹿児島湾の入り口にあたる東西の郷(指宿・小根占)を「大郷」にして海上からの攻撃に対する防衛機能を重要視していたことがわかる。 小根占では、藩政時代の天保9年(1838)に外敵の侵入に備えて、藩より大砲を借り受けて、さらには遠見番所を置き外船の通過あるごとに烽火をあげてこれを報じているなど、海上からの外船の襲来に気を配っていた。<BR><BR>IV.結論<BR>  本報告では、薩摩藩における「外城制度」を個々の外城(郷)として考察し捉えるのではなく、藩全域スケールで各外城(郷)と城下町との相互関係を加味しつつ分析した。その際、一般的な傾向から逸脱する「指宿」・「小根占」を中心に、城下町と外城(郷)のシステム的連関について考察した。<BR>  結論としては、以下のことが指摘できる。 鹿児島城下町が海上からの攻撃を警戒していたため、海上交通の要所となる鹿児島湾入り口にあたる「指宿」・「小根占」の両郷を「大郷」とし、海上の防衛拠点として重要視していた。<BR>  このように、「鹿児島城下町」と「薩摩藩の外城制度」との間には明らかに因果関係があり、薩摩藩における外城制度を論じるにあたっては、藩全域スケールで各外城(郷)と城下町との相互関係をも加味することが必要であると考えられる。今後は、さらに多くの事例を分析しつつ、薩摩藩における「外城システム」の位置付けを課題とする。

収録刊行物

キーワード

詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390001205592718976
  • NII論文ID
    130006961152
  • DOI
    10.11518/hgeog.2002.0.000020.0
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

問題の指摘

ページトップへ