群馬県富岡市における生シイタケ生産の展開

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  • Development of the Shiitake Mushroom Production in Tomioka-city, Gunma Pref.

抄録

<BR> 1. はじめに<BR>  1990年代に輸入が急増した中国産生シイタケは、国内消費量の約40%(2000年)を占めるまでに達した。2000年のセーフガード暫定発動以降、中国からの生シイタケ輸入量は減少したが、なお約30%(2004年)を占める状況にある。国内の生シイタケ生産者は、依然として低価格の中国産生シイタケとの激しい価格競争下におかれている。また、生シイタケは他のキノコ類との競争下にもある。それは価格だけでなく、食文化の変化などによる他のキノコの消費量増加の影響が大きい。<BR>  本発表では、このような状況に国内の生シイタケ生産地が、どのように対応し、市場での競争力を維持しようとしているのか、また、その対応がどういった経緯でなされてきたのかを、生シイタケ生産の展開過程と関連させて明らかにする。<BR>  対象地域は群馬県富岡市とする。群馬県の生シイタケ生産は、中国産生シイタケの輸入が急増する以前から盛んで、2003年まで都道府県別生産量が1位であった。富岡市は、群馬県の中でも生シイタケ生産が特に盛んな地域で、その生産は主に個人の生産者によってなされている。<BR> 2. 生シイタケ生産の展開<BR>  群馬県における最初のシイタケ生産は、富岡市で始まったとされる(富岡市史 1988)。1914(大正3)年、新潟県中頚城郡吉川町よりシイタケ原木を入手した岩井氏(富岡市高瀬)は、シイタケの生産に成功し、わずかながら東京へ生シイタケを出荷していた。また同氏は市内で神社の祭りが行われる際、シイタケ原木を境内で販売していた。これによって市内の農家はシイタケ原木を入手することが出来るようになり、同時にシイタケの栽培技術も広まった。その後、生シイタケ生産は市内全域に広まりをみせたが、特に一ノ宮・丹生・額部の3地区では高瀬からホダ木を入手していた(椎茸のあゆみ 1978)。生産開始は最も早い高瀬地区で1914年に、最も遅い吉田地区では1931年であった。このように、富岡市の中で最も生産開始が早かった高瀬地区ではあるが、昭和40年代をピークに生産者は減少を続け、現在ではほとんど残っていない。<BR>  1977(昭和52)年の同市のシイタケ生産者数は457戸、特に丹生地区(109戸)・額部地区(103戸)の生産者数が飛びぬけて多い。同市の生産者数は2000年に117戸、2006年に77戸と極端な減少を示した。特に額部地区以外の地区では、生産者の減少が顕著であった。2006年の額部地区の生産者数は43名で、市内の生産者数の半数以上を占めている。<BR> 3. 栽培方法の変化<BR>  1990年代に入ると生シイタケ栽培方法の主体が、原木栽培から菌床栽培へ移行するという全国的な変化がみられる。生シイタケの栽培方法別生産割合の推移をみると、1994年には原木栽培74.4%・菌床栽培25.6%、2004年には原木栽培31.9%・菌床栽培68.1%で、そのシェアは逆転している。<BR>  このような栽培方法の変化は全国的にみられるが、富岡市においてのその変化は主に2003年以降にみられた。同市における生産量と栽培方法別生産割合の変化をみると、2002年は917.2t(原木栽培95%・菌床栽培5%)、2005年は821.7t(原木栽培56.7%・菌床栽培43.3%)と生産量が減少する一方で、菌床栽培による生産が大幅に増加した。菌床栽培は原木栽培に比べ省力化が可能で、品質の高い生シイタケの収穫量が多い。そのため、同市の生産者の中でも生産意欲が高い、特に50代の生産者を中心に導入が進んだ。<BR> 4. 流通構造<BR>  富岡市で生産された生シイタケは、地区ごとに1つまたは2つ存在する出荷組合を通して関東地方の青果市場へ出荷されていた。1990年代以降の輸入生シイタケ増加と生シイタケ販売価格の低下という全国的な動きは、同市における各出荷組合の生産者の減少と生産量の減少による市場での地位低下という変化と重なり、農協の系統出荷への移行を促した。<BR>  1997年、農協に生シイタケの自動包装機が導入されたのを契機として、従前の出荷組合は農協の出荷部会へと統合された。農協は大手スーパーへの直販ルートを確保し、価格の維持を図っている。また、生産者の立場からは農協の生シイタケ自動包装機の導入により、包装に費やす作業時間が必要なくなり生産性が向上した。<BR> 5. まとめ<BR>  富岡市における生シイタケ生産は県内で最も早い時期に開始され、それが市内全域へ広まり1960~1970年代には、国内有数の産地となった。しかし、その後は生産者の高齢化や後継者不足などによって年々生産者数は減少し、産地としての基盤は弱体化していった。さらに、輸入生シイタケの増加と生シイタケ販売価格の低下は、各出荷組合から農協による系統出荷への移行と、原木から菌床への栽培方法の転換という産地内における2つの大きな変化を促した。<BR><BR> 甘楽富岡地区椎茸生産連絡協議会 1978.『椎茸のあゆみ』.<BR> 富岡市史編さん委員会 1988. 『富岡市史近代・現代資料編(上)』.

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390001205692043136
  • NII論文ID
    130007014304
  • DOI
    10.14866/ajg.2007s.0.54.0
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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