戦後那覇の都市計画と「場所の政治」

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タイトル別名
  • Cultural politics of place in the urban planning of post-war Naha
  • Focus on the revival of the red-light-districts
  • 〈辻町〉の再興をめぐって

抄録

1. 研究目的<br> 本研究の目的は、米軍の占領下で進められた都市建設に固有の理念ないし空間的な論理の一端を、「場所の(文化)政治」を糸口に地理学的な観点から明らかにすることにある。対象とする場所は、都市建設(形成)期の沖縄各地に成立した歓楽街である。それらは、いずれも「自然に形成された」ように見える場所なのだが、なかにはさまざまな意図が絡み合い、政治的な力関係に左右されながら創出されたところも存在した。那覇近郊の「栄町」は、その代表例である。<br> 本発表では、歓楽街のなかでも戦前那覇の大遊廓として知られた〈辻町〉に焦点を絞り、その再興過程の考察から上記の課題に取り組んでみたい。いくぶん結論を先取りして述べるならば、〈辻町〉はまさに、施政者が(後に出来する)都市空間の全体を俯瞰(構想)しつつ、施設・機能・用途地域を的確に配置しようとする都市計画的な志向性のなかで創り出された場所であった。<br> 2. 首都計画から那覇市都市計画へ<br> 一般に那覇市の都市計画の端緒は、1950年8月の都市計画条例によって開かれたとされている。とはいえ、この年まで都市計画に向けた動きが必ずしも皆無だったわけではない。実際、1950年以前に「那覇市都市計画案を前後三回に亙って提出したけれども、結局軍の意図に沿わぬとの理由で三回とも却下され」ていたという。<br> 注意すべきは、却下された案が実際には「那覇市都市計画」ではなく、周辺の二市二村を含む「首都計画」であり、計画主体は民政府だったという点である。軍政府は「那覇市の都市計画は那覇市が主体となって計画し、実施すべきで、民政府は那覇市の都市計画に対して参考的な意見はいえるが那覇市を拘束することは出来ない」という立場から、三度にわたり計画案を却下していたのだ。<br> つまり、1950年3月を境に、那覇をめぐる都市計画は、広域にわたる首都計画から那覇市域を対象とする計画へと移行したのである。その後、周辺の市・村を区域とする都市(首都)計画の策定は、1956年まで待たねばならない。<br> 3. 歓楽街成立の三つの背景<br> しかしながら、この廃案になった首都計画の空間的文脈のなかで誕生した歓楽街がある。すなわち、それが「栄町」であった。那覇市内で辻町の復興が望めないなか、行政域としては那覇の市外でありながら、隣接して市街地としては一体化している栄町の地の利を活かし、〈辻町〉に取って代わる歓楽街が形成されたのである。<br> そればかりか、後に那覇市に合併される小禄村でも、軍用地と接する土地に、その名も「新辻」と称する歓楽街が建設された。これは、島内北部や本土でも見られた基地近接型の歓楽街ということになる。いずれにしても、隣接する二つの村に歓楽街が成立するなかで、那覇市は独自の都市計画を立案したのだった。<br> この計画で旧〈辻町〉は「住居地域」として区画整理されることになっていたものの、前述のように、首都計画の文脈で成立した「栄町」は市外に立地しており、また旧に倍する成長を見せた料亭・飲食店に対処すべく、当初の方針は1年もたたないうちに転換される。<br> 4. 〈辻町〉の再興と「場所の政治」<br> 1951年春、那覇市は統制なきままに展開する料亭・飲食店(風俗営業)を規制すべく、旧遊廓の辻町一帯に「この種の料理店」を囲い込むことを企図し、「特殊商業地区」を設定する。市域に限定した都市計画を立てた以上、問題視された放縦な風俗営業にも自前で対処しなければならず、定めたばかりの地域制を変更せざるを得なかったのだ。これによって、「昔なつかし辻情緒……各通りをはさんで料理屋、飲食店、各種娯楽場、ダンスホール等々…〔の〕…様々の建物が建ち並ぶ」ことが期待され、実際、那覇を代表する歓楽街へとまたたくまに発展するのだった。<br> この政策は後々まで大きな影響を及ぼすことになる。というのも、本土復帰と同時に「トルコ風呂」ならびにモーテルの「規制外地域」、すなわち営業許可地域として指定されたことで、現在にまでいたる風俗営業地区となったからである。<br> 5. 風俗営業取り締まりと「場所の文化政治」<br> 興味が持たれるのは、「辻への返り咲き」ないし移転を待望する業者もいたことである。施政者側も〈辻町〉という場所の歴史性に配慮した面があるとはいえ、風俗営業取り締まり上の「囲い込み」に業者自らが応じることで、〈辻町〉は再興したのだった。栄町の業者の多くが、実際に移転したのである。<br> 思惑は違いこそすれ、こうして〈辻町〉再興の端緒は開かれた。二つの歓楽街の成立過程に「政治」を透かし見るとき、首都計画から那覇市単独の都市計画への変更は、看過できないものとなる。

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390001205692712064
  • NII論文ID
    130007015272
  • DOI
    10.14866/ajg.2009f.0.122.0
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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